家の中で、人は犬に向かって話しているつもりでも、犬は別の場所で耳だけをこちらに向けていることがあります。
名前を呼んでいないのに反応する。
視線は合っていないのに、音だけは確かに拾われている。
多くの場合、それは偶然や勘の良さとして片づけられてきましたが、そこに学習が含まれているかどうかを、私たちは深く考えてこなかったのかもしれません。
犬が物の名前を覚える、というと、多くの人は芸の延長を思い浮かべるでしょう。
実際、ほとんどの犬にとってそれは正しい理解です。
人の指示語は覚えられても、ボールやぬいぐるみ一つ一つに固有の名前を結びつけ、それを何十個も保持することは極めて困難です。
ところが世界には、その例外がわずかに確認されています。
研究者たちは彼らを「ギフテッド・ワード・ラーナー」、ここでは「ギフテッドの犬たち」と呼びます。
新しい物の名前を短時間で覚え、時間が経っても混乱しにくい。
犬の認知能力の限界を、結果として更新してしまう存在です。
これまでの研究でわかっていたのは、ギフテッドの犬たちが「人から直接教えられた名前」を覚えられる、という点まででした。
しかし、人の子どもが1歳半ごろから見せる重要な学習様式があります。
それは、自分に向けられていない大人同士の会話を横で聞き、物の名前を獲得するというものです。
今回の研究が焦点を当てたのは、ギフテッドの犬たちが、この社会的な学習の段階にまで踏み込んでいるのかどうか、という点でした。
研究では、ギフテッドの犬たちに、まったく新しいおもちゃを与えました。
ひとつの条件では、飼い主が犬に向かって普通に名前を紹介します。
もうひとつの条件では、飼い主は別の家族に向かって名前を口にするだけで、犬には一切話しかけません。
犬はその場にいますが、教えられる対象ではありません。
その後、複数のおもちゃの中から名前を指定して選ばせることで、名前と物との結びつきが、どの程度まで成立しているかを確認しました。
比較のため、ギフテッドではない一般的な家庭犬にも同じ条件が与えられました。
そこで目にされた反応は、研究者の想定をやや超えるものでした。
ギフテッドの犬たちは、直接教えられた場合と同様に、立ち聞きの条件でも新しい物を選び分けました。
しかも、名前が発せられた瞬間に物が視界に入っていなくても対応が成立し、時間が経ってからもその結びつきは維持されていました。
一方で、一般的な家庭犬では、新しい物への関心は見られても、名前との対応が安定することはありませんでした。
ここで浮かび上がってくるのは、単なる音の記憶だけでは説明しきれない点です。
ギフテッドの犬たちは、言葉を「音声の列」としてではなく、人と人との注意のやり取りを含む出来事として受け取っていた可能性があります。
彼らは会話を録音するのではなく、その場の出来事ごと受け取っていたようにも見えます。
そこには視線、手渡し、場の流れといった情報が重なっています。
もっとも、この能力はすべての犬に当てはまるものではありません。
対象となったのは極めて稀な犬たちであり、なぜ彼らだけがこの学習様式に到達するのかは、まだ説明できていません。
実は以前、このブログでは、同じタイプの犬たちについて「世界をどう見ているか」という別の角度から紹介したことがあります。(「言葉を拾う犬―ラベル・ラーナーという“稀な知性”」)
そこでは、彼らが目の前の物や出来事を漫然と追いかけるのではなく、立ち止まり、関係や構造に注意を向けている様子が描かれていました。
探索よりも把握に重心を置く、その独特の向き合い方です。
今回の研究は、そこにもう一つの層を重ねます。
彼らは世界をじっと見て構造を捉えるだけでなく、周囲で交わされる会話に耳を澄まし、その音をすでに理解している世界の中に結びつけていました。
言葉は最初から物に貼りつくのではなく、理解された世界の上に、後からそっと載せられているようにも見えます。
家の中で交わされる言葉は、誰に向けたつもりで発せられたものでも、別の耳に届いていることがあります。
その耳が、音だけでなく、場の意味ごと受け取っていたとしたら。
私たちが「聞いていない」と決めつけている場面で、「言葉」がすでに意味を伝えている可能性は否定できません。
参考文献:
Dror S, Miklósi Á, Morvai B, Năstase AS, Fugazza C. Dogs with a large vocabulary of object labels learn new labels by overhearing like 1.5-year-old infants. Science. 2026;391(6781):160-163. doi:10.1126/science.adq5474

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
