4月・5月の休診のお知らせ

 

沖縄は、もう葉桜になっていますが、本土に住む知り合いから送られてくる桜の写真を見ると、今が見ごろを迎えているようです。

 

さまざまの事おもひ出す桜かな     芭蕉

 

一年に一度の桜との出会いは、歳を重ねるごとに1回、また1回と寄り添ってくれているものです。

歳を重ねると、重ねた分だけ、桜を眺めて思い出すことも多くなりますね。

さて、今日から4月になりました。1年の四分の一が過ぎました。

新年度になり、新天地で新しい生活が始まる方も多いことでしょう。

桜の風景とともに、人生の一コマを刻んでいくのでしょうね。

 

さて、クリニックの4月、5月の祝日休診のお知らせです。

 

下記の期間につきましては。祝日の外来を休診させていただきます。

 

4月29日(土) 昭和の日

4月30日(日) 休日

5月 1日(月) 通常通り

5月 2日(火) 通常通り

5月 3日(水) 憲法記念日

5月 4日(木) みどりの日

5月 5日(金) こどもの日

5月 6日(土) 通常通り

 

ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。

 

 

「薪は薪、灰は灰」

 

 

道元の「正法眼蔵」を禅の指南書としてではなく、哲学書として読むとそれほど難解ではなくなると教えてくれたのは、ひろさちやさんでした、(「100分de名著」ブックス 道元 わからないことがわかるということが悟り)

その言葉をヒントとして読んでいくと、確かに(完全に理解しているとはいえないまでも)心に響くものがあります。

例えば「第一 現成公案」の(0九)に、こんな一節があります。

 

たき木、はひ(い)となる、さらにかへ(え)りてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

  

(現代語訳)

薪は灰になったなら、ふたたび薪となることはありえない。この事情を灰はのちで薪はさきだと理解してはいけない。

知っていなければならないことは、薪は薪としての現象であって、さきがありのちがある。前後があったとしても、その前後はきれていて現在のままである。灰は灰としての現象であって、これもまた、のちがありさきがある。

 

中野孝次著「道元断章」に道元の死生観が述べられていますが、それがこの一節の意訳として成り立つのではないかと思いました。

 

生のときはただ生、死のときはただ死、それ以外に何もない。だから、生のときは全力でただ生に仕えよ、余計なことを考えて他を案じるな。死のときはただ全力をもって死に仕えよ。それが生きるということであり、死ぬということである。生と死は因果関係で結ばれたものではない。

 

特に最後の「生と死は因果関係で結ばれたものではない」という言葉を突きつけられて、衝撃を覚えました。

あくまでも「薪は薪、灰は灰」なんですよね。

それを忘れて、余計なことで不安を感じたりするのも、そんな必要はないことを気付かされるのです。

 

AIとコミュニケーション

 

ChatGPTやNotion AIなど、最近のAIの進歩には目覚ましいものがあって、なかなか話題についていくこともできません。

この分野の飛躍的な進歩については、いろいろと仮説があったりしますが、いよいよシンギュラリティが始まったのかという気持ちにもなっています。

これらに漠然としつつも空恐ろしさや不安を感じてしまうのは、これらの技術革新が正真正銘の新しい文明の出現だからなのでしょう。

「質問をしたら人間のように自然に返してくれる」のうちは、へえという感心はしましたが、(そういうアルゴリズムなんだろうな)ぐらいの感覚でした。

それが、「愚痴をこぼしても共感や寄り添いの言葉で励ましてくれる」というお話を聞いたぐらいから(ん?)になり、「ChatGPTに友だちと仲直りするためにどうしたらいいか聞いてみた」とか「今日、何をしたらいいかアドバイスしてもらった」とかの活用例を聞くと、(ちょっとこれ大丈夫か?)という気持ちになってしまいました。

ChatGPTを勉強や学校教育にどう活用するかという話もありますが、そもそも既存の教育がこれからも必要なのかというレベルの技術革新です。

遠い昔、人類は文字を発明し、言葉を記録できるようになりました。やがて活版印刷が発明されて書物が流通した時代には、知識が広く共有されるようになりました。人類だけが読書をし、先人の知識を理解し、蓄えていったのでした。それが、今や人間の能力以上のスピードと容量でコンピューターが文字を読み取り理解し分析しています。

ChatGPTやNotion AIの出現は、コミュニケーションという分野においてもコンピューターが人間を上回る時代になりつつあるということなのだと思います。

これから先、必ず人間の機能を凌駕するであろうAI技術を前に、改めて「人間性とは何か」「我々人間の存在意義は何か」を自問しつづけていく時代になってきそうです。

これから、あらゆる分野で「哲学」が論じられていくのでしょう。

フランケンシュタイン症候群(人間がロボットや人造人間、AI技術などに憧れを抱く反面、それらに人間が支配されてしまうことを恐れる、複雑な感情のこと)に安易に陥らないためにも、「人間中心」の視座は忘れないでいたいです。

 

 

「幸せの黄色いワーゲン」

 

小学生の頃、フォルクスワーゲンにまつわる都市伝説が盛んに広まっていました。

考えてみれば「都市伝説」という言葉さえなかった時代です。

例えば、遠足の時のバスの中で、目的地までに「フォルクスワーゲンを何台見つけることができるか」をクラスメイトと競いましたし、往路・復路を合わせて「100台見つけたら幸せになれる」というのもあった気がします。(ただし、水色を見たらリセットされるという鬼ルールつきでした。)

私たちが「フォルクスワーゲン」あるいは「ワーゲン」と呼んでいた車は、正式には「フォルクスワーゲン タイプ1」という車種で、「ビートル」という愛称で知られています。

2003年にメキシコ工場で最後の車両が完成し、それが生産終了のニュースとして報じられていました。

1970年代の沖縄では、「1日100台見つける」というミッションは、簡単ではないけれど頑張れば達成できそうに思えるぐらいにフォルクスワーゲンが走っていましたし、今ほどカラーのバリエーションもなかった気がします。

そういうレアな要素もあったのでしょう。フォルクスワーゲンにまつわる都市伝説の極め付けは「黄色いワーゲンを見たら幸せになれる」でした。

どういうわけか「幸せになれる」というのは共通していたようです。

「カブトムシ」と称される愛嬌のある造形の影響でしょうか。好印象のシンボルとして捉えられていたようです。

そういえば、浦添市大平にある自動車部品・用品店のバイパス(国道330号線)側の店先に、黄色いフォルクスワーゲンの廃車体が置いてありますね。

ここを通るたびに「『幸せになれる』というのはまだ有効かな」と思ってしまいます。

 

(写真はgoogleマップのストリートビューから)

 

教育テレビ「はたらくおじさん」

 

「シン・仮面ライダー」を観たその晩、大脳皮質が刺激されたのか、古い記憶の中からつい口ずさんで漏れてきたメロディがありました。

終盤のフレーズのようですが、歌詞があやふやです。

タリラリタララ…で歌いながら、輪郭が浮かびあがってくるのを待ちました。

そして、ついに歌詞とメロディが一致した瞬間に、思わず声をあげて笑ってしまいました。

「はたらくおじさん、はたらくおじさん、こん・に・ち・わ~♪」

「はたらくおじさん」は、NHK教育テレビで放送されていた小学生低学年向けの社会科番組でした。

当時、テレビ授業の時に見た記憶が残っているのか、夏休みか小学校に上がる前に見ていたのかも知れません。

気球に乗ったタンちゃんと犬のペロくんが空から望遠鏡で覗いて、毎回おじさんから仕事の説明をしてもらうというものです。

今は動画アーカイブの時代ですから、きっと誰かが残してくれているだろうと思って探してみたら、やはりYouTubeにあがっていました。

放送中にも、「はたらくおじさん」が「みんなのしごと」へ、そして「はたらくひとたち」に改題していったというのも時代の移り変わりの反映ということですね。

でも、なんで急に「はたらくおじさん」のことを思い出してしまったのでしょう。

自分でも不思議です(笑)。

 

 

映画「シン・仮面ライダー」

 

週末に映画「シン・仮面ライダー」を観てきました。

テレビの「仮面ライダー」は昭和46年から放送開始されましたから、昭和40年生まれの私はリアルタイムで見て育ってきた世代です。

第1話「怪奇蜘蛛男」で初めて仮面ライダーが登場したシーンは、崖の上でした。

第8話「怪異!蜂女」では、戦闘時に刀や銃などを持たないライダーが、初めて剣を手にしました。

第14話「魔人サボテグロンの襲来」の時に初登場した一文字隼人は、ミノルタ16pを片手に持って「カメラマン」だと名乗りました。

それらをなぞるようなシーンの連続に、当時の記憶が呼び戻されて、いちいち声をあげそうになりました。

映画のオープニングは、シリアスな脱出&追跡シーンから始まります。

主題歌の「レッツゴー!! ライダーキック」を期待していた私は、肩透かしをくった感じでしたが、蜘蛛ローグとの戦闘シーンでインストルメンタルで流れ、全身の肌がザワザワしました。

全体的に大変面白く観させてもらったのですが、昭和の同窓会のように楽しんでしまったので、私たち世代には良いのですが、他の世代を含めた広い世間にはなんだか申し訳ない気持ちになってしまいました。

「これって受け入れてもらえるのかな?」という祈るような気持ちです。

「仮面ライダー」は「真・仮面ライダー序章」や「「アマゾンズ」など革新的な試みを積み重ねてきた歴史があります。2005年には漫画版の映像化を試みた劇場版「The First」もありましたし、最近では「仮面ライダーBLACK SUN」も作られました。

常識にとらわれず、冒険も厭わずに常に変化し続けてきたのが「仮面ライダー」だと思います。

「あえて答えを用意しておかない」庵野監督の「シン・シリーズ」が、仮面ライダーの歴史の1ページに加えられたことは画期的であると思いました。

大変面白い映画でした。昭和30~40年台生まれの大人には、絶対おすすめです。

 

 

「毎日続ける」

  

  

本多静六は林学者であり「公園の父」として知られています。

それ以上に本多式「四分の一天引き貯金法」が有名で、そのお金を元手に巨万の富を築いた株式投資家としての方がよく知られている気がします。

この本には、もちろん貯金法についての記載はありますが、私が興味深く読んだのが「『一日一頁』の文章執筆」という章でした。

 

「四分の一貯金と共に、満二十五歳の九月から始めたのが、「一日一頁」の文章執筆であった。これは一日一頁分(三十二字詰十四行)以上の文章、それも著述原稿として印刷価値をもつものを、毎日必ず書き続けるという「行」である。第一期目標を満五十歳までと立て、まず二十五年間はこれを押し通そうと決定した。」

 

毎日書き続けることを「行」と捉えています。

手前味噌のようでお恥ずかしいのですが、この発想はちょっと私に似ていると思いました(笑)。

 

「一日一頁といえば、一週間旅行すると七頁分も溜まる。あとの一週間は一日二頁分宛にして取りかえさなければならぬ。年末俗事に追われて時間を食ってしまうと、翌年の元日から早朝学校へ出掛けていって、十枚、二十枚の追撃執筆をしなければならぬ。それをいつも怠らずやった。次第に馴れ、次第に面白くなってきて、しまいには、長期旅行をする際などは、いつも繰り上げ執筆で済まされるまでになった。」

 

わかるわかる。わかるなあ。

何かしら(簡単なものでも)日課として続けていくと、ひとつの形になるかも知れないですね。

「行」などと固く考えなくても良いので、「継続は力なり」を実感することができると喜びになります。

 

「恩讐の彼方に」

 

昔読んで忘れられないという小説は、やはり今読んでも面白いですし、何度も読み返してしまいます。

私にとって、菊池寛「恩讐の彼方に」は、そんな作品です。

(青空文庫で全文を読むことができます。)

あらすじを紹介します。

 

旗本に仕える市九郎が、主人に斬りつけられるところから物語は始まります。主人の愛妾と密通したのが原因でしたので、最初はおとなしく罰を受けるつもりの市九郎でしたが、とっさに反撃に出てしまうと、逆に主人を殺してしまいます。逃げ出した市九郎は、やがて出家して全国を行脚します。豊前の鎖渡しという山越えの難所で人が毎年死ぬことを知った市九郎は、懺悔として断崖にトンネルを掘り始めるのでした。19年の歳月が流れ、完成を目前にしたとき、主人の息子実之助が「父の仇」と仇討ちにやって来ます。素直に斬られることを望む市九郎でしたが、いつしか市九郎に協力するようになった石工たちが「完成まで待ってくれ」と嘆願し、押しとどめます。実之助は、本懐を遂げる日を1日でも早めるために、石工たちに混じって掘削をはじめました。市九郎が掘り始めて21年目にようやくトンネルは完成します。約束通り市九郎は実之助に自分を討たせようとしますが、市九郎の行いに心打たれた実之助は仇討ちの心を捨てて、市九郎にすがりついて号泣するのでした。

 

「生涯をかけた壮大なミッション」と口にするのは簡単ですが、ノミと槌だけで少しずつ岩を掘り進めていく市九郎の姿は、もはや懺悔の心を通り越したものです。

その一途さ、「これをやり遂げたのなら何もいらない」とする潔さは、尊いものとして私の心にいつまでも残っています。

青空文庫で読むのも良いですが、YouTubeで朗読のチャンネルを見つけました。

おすすめです。

 

 

「振れ幅を小さくする」

 

ある一流のアスリートがこんなことを言っていました。

「人に期待しないから、自分は心が折れることがない。人の評価を気にしないので、人の言動で動揺することがない。」

メンタルというのは振れ幅が小さいほど、安定しているものです。

振れ幅というと、三角関数の正弦曲線が頭に浮かびます。y =sinθは1と-1の間を行き来していますが、その波の振れ幅を小さくするイメージです。

「振れ幅を小さく」というと、下に沈まない、ネガティブにならないことに注力しがちですが、実はノっている時やはしゃいでいる時も問題が起こりがちです。

快苦でいえば、「快」の時ほど問題が見えにくいものですし、有頂天になっている分、落ちる時のショックは相当なものです。

ですから、「快苦」の両方の振れ幅を小さくする必要があります。

前述のアスリートの「人の評価」というのは、良い評価を向けられた時にこそ「気にしない」そして「人に期待しない」

快苦の幅を狭めることを少し意識するだけで、心の疲れ方が変わる気がします。

ただ、その境地にいたるまでが難しいです。特にon the jobでは止観することが難しいです。

 

 

「PERMA」

 

 

この本の中で、セリグマンは「ウェルビーイング理論」について語っていて、そこには五つの要素があるとしています。

その五つの要素の頭文字をとって「「PERMA」と表します。

 

「PERMA」~幸せのための五つの条件~

 ・Positive Emotion (ポジティブ感情)

 ・Engagement (エンゲージメント)

 ・Relationships (関係性)

 ・Meaning(意味・意義)

 ・Achievement(達成)

 

Positive Emotionとは、前向きな感情やよいフィーリングのこと。

Engagementとは、今の活動に没入すること。ほかのことを全て忘れて集中している、フローの状態。

Relationshipsとは、周りの人々と本質的につながっていることが幸せに関与するという意味。

Meaningとは、人生の意味。何のために生きているのかということ。

Achievement とは、何かを成し遂げ成功した感覚がある人は幸せな人である、という意味。

 

セリグマンによれば、ウェルビーイングとは構成概念であり、ウェルビーイングこそが、ポジティブ心理学のテーマといいます。

私の理解が追いついていませんが、ウェルビーイング理論と幸福理論とは違うのだそうです。