「われ以外みなわが師」

「宮本武蔵」や「三国志」で知られる吉川英治が好んで使った言葉に「われ以外みなわが師」があります。

そのタイトル名の著書があるぐらいですから、座右の銘とされていたというのも頷けます。

自分以外はみんな自分の先生だと言うのです。

これはチーム医療を実践するうえで大切なポイントとなります。

お互いの立場によって視点が違いますし、アプローチの仕方も変化します。それぞれの知見も異なりますし、専門家として持っている知識も違います。

チームで動く最大のメリットがそこです。

そして、そのメリットを最大に引き出すには「相手に学ぼう」とする態度です。「学ばなきゃ損」ぐらいに思っていた方がことは円滑にすすみます。

「自分以外は私の先生」

少し思い出してみれば、私の尊敬する先生たちは、自分よりも若い後輩から教えてもらうのを、皆んな嬉々として喜んでいたように思います。

 

坂道を上るように?

 

交流分析の創始者である心理学者のエリック・バーンの有名な言葉があります。

他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる。

変えられない状況に直面した時、しかもそれが最悪の状況だった場合、人は身もだえするほどのストレスを感じます。

変えられない状況を変えようとすることは、解決できない問題に体当たりを繰り返して心身を疲弊させるようなもの、あるいは悩みのどろ沼にはまりこんでいつまでもクヨクヨしているようなものです。

「自分と未来は変えられる」というのは表現の対比として良いのですが、自分にできることは、先のことを考えずに今できることに集中することだけです。

ランニング仲間のひとりが言っていました。

「私は登り坂の時は足元から目をあげないで走る」

あとどれくらい続くのかと精神力をすり減らし消耗させないための、感情をコントロールするひとつの方法です。(ランニングフォームとしては良くないかも知れませんが)

今、どうするかだけ考える。

変えられない他人と過去のことは考えない。

SNSが飛び交う今の時代、必要なのはその姿勢なのだと思います。

 

 

若い世代についていけないと思う時

 

当然、社会経験に関しては、若い人たちよりも私たち世代の方が詳しいことが多いです。

けれども、それ以外については、年齢と知識は総じて比例するものではありません。年齢の経験値など何のアドバンテージもないものです。

ある分野についてその存在さえも知らないで過ごしていることはたくさんあります。無知であることも知らない状態です。

興味や関心がないと言ったらそれまでなのですが、これが歳をとることなのかとも思います。

例えば、メタバース。「あつまれ どうぶつの森」もメタバースの一つとされているそうですが、私の理解はその程度です。

細田守監督のアニメ映画「竜とそばかすの姫」を見て仮想世界と現実社会の混ざり具合(溶け具合?)に、どこか感情移入できない自分がいました。

さらに、メタバースが不動産などの経済活動にも及ぶなどと聞くと、もはや私の理解を超えたお話になっています。仮想空間に不動産?

バーチャルイベントもそうです。単にリアル・ライブの代替以上の可能性を秘めていると聞いてもピンときません。

卑しい私は、バーチャルイベントで腹の足しになるのか?ノドの渇きが癒せるのか?と真っ先に身体の欲求の方の心配をしてしまうのです。

マトリックスなどのSF作品に登場するような、全人類が参加するような巨大プラットフォームが実現したとして、それが人類が望むものなのかとも思ってしまいます。

自身のメタバースにファンを取り込んでしまったウタウタの実の能力者が、幸せの対極の道を歩んでしまったように、皆んなその行く末にどこか不安を感じてしまっているのではないかとも思うのです。(自分勝手に解釈しています)

中途半端な規模の、あまり大きくない影響力の空想世界の方が、私たち世代には居心地が良い感じがします。これからどうなるのかわかりませんが。

 

映画「エイリアン」

 

娘が観たことがないというので、一緒に「エイリアン」を観ました。

「教授がエイリアンは観るべきってすすめてくれたんだよねぇ」

幸いに娘の恩師と私の好みはとてもよく似ているので、「エイリアン」という単語が出てきた時は、驚きましたが妙に納得していました。

「そうそう。エイリアンはシリーズ化されているけど1と2は別格なんだよねぇ」

特に私はエイリアン2が好きで、何度もリピートして観てきました。(確かDVDも家のどこかにあったはず)

「エイリアン」はご存知の通り、1979年のリドリー・スコット監督のSFホラー映画。

ストーリーとしては、宇宙船という閉鎖空間に正体不明の異生物が入り込み、乗組員たちが次々と襲われる恐怖を描いたものです。

故障した宇宙船は、電源が不安定で船内は薄暗く、隠れ場所が多いので、それだけで不気味です。

(今だに何で単独行動するんだと脚本への不満がついもれてしまうのですが…)

ヒロインは観客の恐怖感を煽る悲鳴担当ではなく、リーダーシップを持ち勇気を振り絞って行動力を示す、我らがリプリー(シガニー・ウィーバー)。

その後、何作ものエイリアンシリーズがリプリーを軸に描かれることになります。

初見の娘とハラハラドキドキしながら、最後まで観ました。

やはり名作です。SFホラー映画の名作古典と言っても良いでしょう。

 

 

期待しているのは何か

 

よく勘違いしがちなのですが、私たちは他人が自分と同じ行動をとるものだと期待してしまいます。

そして、その人が自分の意図することと違う行動をとると、がっかりしたり、腹を立てたりもします。

他人が意外な行動をとると、そのことが理解できずに、ひどい時は攻撃の姿勢を示すかも知れません。

しかし、当然のように一人ひとりの価値観が違いますし、その人の個性も違います。

育ってきた環境や人生経験も、その人の行動を決める要因になってきます。

自分と違うのは、その人なりの理由があるはずです。

逆に私たちの行動がその人には理解できないということがあるかも知れません。

他人に対する先入観は禁物です。自分と同じだという期待は持たないことです。

 

 

禅語「本来無一物」

 

禅語に「本来無一物」という言葉があります。私が好きな言葉です。

「人は生まれながらにして持っているものは何一つない。」という意味です。

「精選版 日本国語大辞典」には以下のようになっていて、微妙にニュアンスが違うのですが、言っていることは同じです。

「存在する物は、本来すべて空(くう)であるから、わが物として執着すべきものは一つもないこと。一切のものから自由自在になった心境。」

平たく言えば「失うものは何もない」という心境ですね。そういう人間は強いです。古い言葉を使うと「裸一貫」あるいは「ふんどし一貫」ってやつです。

 

ルソーがこんな文章を残していました。

飾り立てた服装をしている人は、高尚な趣味の持ち主ではあるかもしれないが、その人が立派な人かどうか、健全な人かどうかは、他のところを見なければならない。

それと同じように、美徳、すなわち頑強な精神は、虚飾とは無縁のものである。

美徳を備えた人間とは、裸一貫で勝負する、いわば精神的にたくましい人のことである。

そのような人は、飾り(肩書き)を嫌う。
なぜならそのような飾りは力を発揮するときの邪魔になりうるし、もともとは何らかの欠点を隠すために作られたものが多いのだから。

 

自分は本来無一物だと思えば、多少の失敗は覚悟のうえです。

 

「ファウンデーション」

 

SFはサイエンスフィクションの略で、サイエンスファンタジーはSFとファンタジーがミックスしたものとされています。

読者としては細かい分類は意味がありませんし、「空想科学小説」という訳語が最も特徴をとらえている気がします。

アーサー・C・クラークとロバート・A・ハインラインと合わせて三大SF作家の一人、アイザック・アシモフは著作で、単に宇宙船や宇宙人が登場するのがサイエンス・フィクションではなく、価値観の転倒による驚き、すなわちセンス・オブ・ワンダーが必要と述べたのだそうです。(ウィキペディアから)

そのアイザック・アシモフ原作の「ファウンデーション」がストリーミング配信されていました。

日本では訳本のタイトル「銀河帝国の興亡」として知られています。

古い作品にありがちですが、原作は娯楽作品としては読みづらく、なかなかページが進まないのですが、初の実写化ということで期待して観てみました。

(私事ですが、実写化に慣れてしまった弊害で、原作の言葉の行間からイメージする力が衰えてしまっているのではないかと危惧しています。)

全部で10話。けれども、それは早とちりで、それで到底完結するものではありませんでした。いわゆる「シーズン1」が終わっただけでした。

なんでも、構想では80話規模のシリーズ化を考えているそうですから、物語は始まったばかりと言えます。

アシモフの言う「センス・オブ・ワンダー」が随所にちりばめられている気がします。けれども、愛憎という点では人間の本質は変わりようがないみたいですね。

もう一度原作に手を出してみる勇気はありませんが、この実写版は追いかけてみたいと思いました。

 

うんけーじゅうしい

 

今日はウンケーです。

実家での夕食は足てびちとウンケーじゅうしいでした。

沖縄ではCOVID-19感染症の第7波の真只中ということもあって、両親は「お盆は小さくね」ということをずっと前から宣言していました。

親戚まわりはしないで、家族だけで過ごすということです。

私の両親はどちらかというと現実主義でサバサバしているのですが、親戚のなかには「3年もやってないのに」と気にする方たちもいて、これがほとんどの家庭の思考なんだろうなと思いました。

行動制限がないことが、行動をより大胆にさせている感じもします。

昨日の新規陽性者数が4289人でしたが、それを聞いた時「少なくなった?」と思ってしまっている自分に気づいて、恐ろしくなりました。

以前は1000人の大台を超えただけで慌てていた人間が、4000という数字に麻痺してしまっている現状に気づいたからです。4000人が少ないわけがありません。

前にどこかの学会の質疑応答で質問者が「高齢化社会」という表現を使った時に、壇上の演者の先生は「今は高齢化社会ではなく、すでに超高齢社会です。」とこだわりを見せて訂正していました。

それと似たようなことが、今、起こっています。「医療崩壊」がそれです。

この旧盆で、さらに高齢者に感染が移行していかないか心配しています。

 

 

禅語「一笑千山青」

 

私の友人に、次に紹介する禅語のような男がいます。

「一笑千山青」(いっしょうすればせんざんあおし)

どんな困難に直面しても、笑い飛ばすほどの器量があれば、イキイキと道が開けるという意味の言葉です。

言い換えれば「マクトゥソーケー ナンクルナイサ」を絵に描いたような男で、わりとトラブルに見舞われるのですが、いつも平然としています。なにより動じる気配がないのです。

そばで見ている方があたふたしてしまう程ですが、彼の様子を見ていると、あまり心配しないのです。後悔をしまくって過度にネガティブの渦に沈み込むこともありません。

「一笑千山青」

この言葉にはハードボイルドなかっこよさがあります。

 

主人公

 

このブログで以前にとりあげましたが、「主人公」の言葉の由来が禅語からきているというのは広く知られていることかと思います。

唐の時代、瑞巌禅師という方が、毎日、自分自身に向かって「おい、主人公!」と呼びかけ、自分の呼びかけに自分で「はい」と返事をしていたというお話からきています。

「主人公、はっきりと目を覚ましているか」「はい」「主人公、これから先も人に騙されなさるな」「はい、はい」と、自分に毎日「主人公」と呼びかけていたのだそうです。

この場合の「主人公」とは、主役というよりも「本来の自分」という意味合いが強いものです。

昭和の哲人と言われる中村天風さんも鏡に映った自分に向かって「お前の信念強くなる!」と命令する、自己暗示法を提唱していました。

どちらもポジティブな言葉で自分自身に宣言をして、なりたい自分を引き寄せる、いわゆるアファメーションを活用したものですね。

自分への宣言はポジティブな言葉に限ります。主語は「私」にして現在形で終える言葉を使います。ですから、人に聞かれたら恥ずかしくなるぐらいの言葉でちょうどいいです。

瑞巌禅師は毎朝、そして中村天風さんは寝がけの習慣としていたのだそうです。

こういう自己暗示は、毎日刷り込むのが大切なのでしょう。