なぞかけオヤジ

 

「なぞかけ」と言ったら、すぐに思い浮かぶのが、ねづっちさんですね。

例えば、「お酒とかけて」というお題。

「お酒とかけて、眼鏡ととく。

その心は、度が強すぎるとフラフラします。」 

お題に対して瞬時に「ととのいました」と答えてしまうねづっちさんは、憧れるほど鮮やかですし、きっと頭の回転が速い方なのだろうと感心します。

 

「なぞかけ」の構成は

「AとかけてBととく。

その心は、Cです。」

Cには、基本的に同音異義語などが入って、ダブルミーニングを利用します。

 

例えば「ギター」というお題があったとします。

「ギター」について連想される言葉を並べてみます。

 

「弦楽器 6弦 エレキ ロック アコースティックギター(アコギ) コード弾き 楽譜…」

 

このなかから同音異義の言葉を探します。

阿漕(あこぎ)はいけそうですが、ちょっと言葉として難しいかも知れません。コード(高度)ではどうでしょう。

これは、Cの場所に入ります。次に「Bととく」のBを考える番です。

高度といえば、スカイダイビングがいいかも知れません。で、Bにスカイダイビングを入れましょう。

「ととのいました」

 

「ギターとかけて、スカイダイビングととく

その心は、どちらもコード(高度)が命です。」

 

うまいとは言えませんが、例題としては(勝手に)いいということにします。ほかにも「6弦」が使えそうですね。

 

「ギターとかけて、平日の学校ととく

その心は、どちらも6弦(6限)まであります。」

 

こんな感じで同音異義語を普段から集めておくのです。そしたら、「なぞかけ」オヤジに(きっと)なれます(笑)

 

 

シャコウとジコウ

 

屋冨祖の国道58号線が、道路拡張工事がすすんで一部8車線になっています。

かなり広くなったので、お年寄りが1回の歩行者用青信号で渡れなくなってしまったとか、というお話も聞きました。

先日、内地にいて、久しぶりに沖縄に里帰りすることができた息子と、その58号線をドライブしました。

「久しぶりだから、(この変わりように)びっくりするでしょ」と私。

「そうだね。この辺はシャコウでさんざん運転させられたから、愛着がある」と息子。

(ん?シャコウ?)

しばし沈黙。やっと私の脳内変換が追いつきました。

「(息子よ)沖縄の心を忘れたんじゃないのかい。父は寂しいぞ」

「え?なんで?」

「沖縄の子なら、シャコウなどと言わずにちゃんと「自練」と言え」

「あはは。最初はそう言っていたけど、説明が面倒くさくなって今は最初から合わせて言うようになった。」

「郷に入れば郷に従えとは言うが、自練もしくは自校と言いまくって、そこの地にこの呼び名を定着させるつもりぐらいがいいぞ。」

「あはは。ムリでしょ。」

その後は息子が聞きなれない単語を口にするたびに「沖縄の心」を無理強いする父親なのでした(笑)。

久しぶりの息子との生の会話に、オヤジなりにはしゃいでいるのを自覚していました。

 

 

ガンジーの言葉

 

ガンジーの言葉です。

 

自分が正しいときには、怒る必要はまったくない。

自分が間違っているときには、怒る権利はまったくない。

 

どちらにしても「怒るな」ということなのですね。

「非暴力」を唱えたガンジーならではの言葉です。ガンジーはほかにもこんな言葉を残しています。

 

怒りは非暴力の敵であり、プライドは非暴力をすべて飲み込んでしまう怪物だ。

 

怒りが湧き上がる時(どちらかというと私の沸点は高めにセットされている方だと思うのですが)ワナワナと体が震え、腰が痛くなるほど循環のバランスが崩れていきます。

そんな時はゆっくりゆっくりと呼吸に意識を集中させるようにしています。

呼吸に意識を戻すことができればいいのですが、我を忘れている時はそれがなかなか難しいです。

怒りのマネジメントは永遠の課題です。

 

 

充実した人になるには

 

 

哲学者が語る言葉は「さすが!」と思いますし「うまいこと言うなあ」と感心します。

そのあたりは、詩人が選ぶ言葉におおいに通じているものです。

超訳ベーコンの本をパラパラとめくっていたら、ふと目に止まった言葉がありました。読書好きの背中を押してくれる言葉です。

 

読書によって、充実した人になる。

会話によって、機転の利いた人になる。

書くことで、正確な人になる。

そんな習慣のない人には必要になってくることがある。

ほとんど書かない人は、強い記憶力をもつ必要がある。

ほとんど会話しない人は、当意即妙の才能が必要となる。

ほとんど読まない人は、知らないことを知っているかのように見せるための、要領の良さを身につける必要がある。

 

終盤の3文はかなり皮肉でまとめた印象です。ベーコンはまるでそんな知り合いの人物を思い出しながらでも書いたのでしょうか。

極めてシンプルに、読書と会話と書くこと(特に読書)が、人生を充実させる鍵だと言っています。

「知は力なり」というフレーズで有名なベーコンらしい言葉ですね。

 

血管老化の4大原因

 

オスラー博士は「人は血管とともに老いる」という有名な言葉を残しています。これは、極めて的を射た名言で、脳梗塞や心筋梗塞などのいわゆる血管病と動脈硬化が相関していることでもわかります。

「血管年齢」という言葉が、巷にわかりやすく浸透していったのは当然のことと言えるでしょう。

血管の老化は、健康寿命を大きく左右します。

今日は血管を老化させてしまう4大要素を紹介します。

 

1)喫煙

タバコを吸っているだけで心筋梗塞などのリスクがあがります。活性酸素を増加させて、細胞を酸化(老化)させます。他の要素との大きな違いは、副流煙を吸ってしまう家族にも影響してしまうことです。

 

2)高血圧

血管の壁に高い圧力がかかっている状態ですから、動脈硬化の進行を招き、血管にダメージを与えます。

 

3)脂質異常

脂質のバランスには食生活や運動習慣が大きく関わってきます。生活習慣の改善が必要です。

 

4)高血糖

食後の高血糖は、血管を老化させる原因とされています。血管はタンパク質でできていますから、血液中の糖と結びついて糖化し、内皮を傷つけてしまうのです。

 

健診でこれらの4つを重点的にチェックするのは、これらが引き起こす動脈硬化が、将来的に血管事故を起こして健康を害するリスクが高いからです。

放置するのは絶対にダメです。

 

 

「遠くに目をやろう」

 

 

「アランの幸福論」の中には、暮らしと密接に結びついた「生活知」がつまっています。

アランが人間の身体性をとても大事にしていたのでもわかります。心と体の結びつきについて多くを語り、心身が硬直してしまうのを「不幸」とみなしていました。

ですから、心をときほぐす身体的な運動が有効だと考えていました。

「心の領域の病気にも、また肉体の病気の初期症状にも同じく、リラックスさせることと体操が必要なのだ」

アランは、筋肉が「笑い」「微笑み」によってほぐされると、心も同様に静めることができ、自分の思うように動かすことができるのだと指摘しています。

「アランの幸福論」には、読むたびに新たな発見があるのですが、今日も興味深い箇所を見つけました。

 

「ふさぎ込んでいる人に言いたいことはひとつ。『遠くに目をやろう』

こういう人はだいたいきまって本の読みすぎである。人間の目はそんな近くに焦点を合わせるようにはできていない。だから宙を見つめると安らぐのである。

星空をながめるとき、あるいは果てしない海をながめるとき、目の緊張が完全にほぐれる。目がほぐれると心が解き放たれ、足どりも自信にあふれる。自分の内部のすべて(臓器までも!)がほぐれ、しなやかになる。」

 

気分のふさぎ込みが「本の読みすぎ」であるかどうかはともかくとして、今風に言い換えるならば「スマホの見過ぎ」「SNSに翻弄されすぎ」だろうとは思います。

そして、アランの「遠くに目をやろう」という提案には、激しく同意します。

「空を見ろ♪ 星を見ろ♪ 宇宙を見ろ♪」(ウルトラマンタロウより)

身体を伸ばし、遠くを眺めて、心のリラックスをしていきましょう。それが、アランの「生活知」というものです。

 

「無財の七施」

 

仏教には「無財の七施」という教えがあります。

「施」とは施しのことで、布施のこと、つまり「見返りを求めず、手を差し伸べること」です。そして「無財の七施」とは、財がなくてもできる布施の教えです。

次の7つを言います。

1)眼施(がんせ)
優しい眼差しで人に接する

2)和顔悦色施(わがんえつじきせ)
にこやかな顔で接する

3)言辞施(ごんじせ)
やさしい言葉で接する

4)身施(しんせ)
自分の身体でできることを奉仕する

5)心施(しんせ)
他者のために心をくばる

6)床座施(しょうざせ)
席や場所を譲る

7)房舎施(ぼうしゃせ)
自分の家や軒先を提供する

 

おわかりのように、これは自分以外のものによろこんでもらうための行動指針と言えますが、どれも特別なことを言っているのではありません。

最初の3つなどは、人にやさしくするとは、まず眼差しと表情と言葉なのだよと当然のことを言っているだけです。

けれども、文字にするのは簡単ですが、これでなかなか実践するのは難しいものです。

「行動指針」ですから、とにかく行動することが大切ですね。

 

 

秋の歳時記

 

9月も数えられるぐらいの日数になって、久しぶりに歳時記を手に取って読み出しました。

9月20日には彼岸入りですし、明日23日は秋分の日(彼岸中日)です。

「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉通りに、さすがにすっかり秋らしくなってきています。(まだまだ台風の脅威は続きますが)

季節の移り変わりを肌で感じて、ふと歳時記を思い出したのでした。

俳句は多作多捨が定石というのはよく聞くのですが、私はまだその段階にも至っていないようで、多作を目指すと却って詠めなくなっていました。

私には歳時記になじむのが先のようです。(なにしろ言葉を知りません。)

今日の発見は「夜食」が秋の季語だったということ。

こんな解説が載っています。

「収穫期、かつての農村では夜も家の中で仕事をしていたので、遅い時刻に空腹を覚え軽い食事を取った。現在は残業している会社員や遅くまで勉強している受験生などがとる軽食のことも指す」(「俳句歳時記第五版 秋 角川書店編」)

本来は、生活の隅々に季節感が宿っているのですね。

そうそう。「台風」も秋の季語です。そして「秋の雨」の解説にも納得です。

「秋といえば秋晴れを連想するが、雨の多い季節でもある。」

今日も夕方から「秋の雨」が降っていました。

やっぱり歳時記はいろいろ発見があって面白いです。勉強になった感じがあります。

 

 

 

よーんなー

 

今日、母親と一緒にテレビを観ながら、いつものように、ああでもないこうでもないと勝手なことを言い合いながら知り顔をしてくつろいでいました。

「あらら。美ノ海は5連敗って」「6勝5敗かあ」「え?6連勝してたの?」「なんでよ。もったいないねえ。」「ここ最近、勝ち越していたのにね。」「千秋楽までもつれたらイヤだねえ」

「喜如嘉の芭蕉布」を復活させた人間国宝、故平良敏子さんの話題になると「きれいな芭蕉布だね」「あれっていくらぐらいするのかね」「人間国宝だもんねえ」「高いはずよね」と実のない話をしたり。

母親とのこんなのんびりした時間が、実は好きです。

そのうちに、沖縄のことばを紹介するコーナーがありました。

「『あわてぃーるなーか』ってよ」「『よーんなー』だね」

なかの役者さんが「あわてぃーるなーか よーんなー」と言い切ったので、母は「あら。当たったね。」と言って嬉しそうでした。

「あわてぃーるなーか よーんなー」というのは「急いでいる時でも、慌てないでゆっくり落ち着こう」という意味です。

まさしく「よんなーよんなー」した夕方のひと時でした。

 

 

フランクルの言葉

 

若い時は「私は何者になっていくのか」などと思い悩むものです。

自己実現や自己開発のマニュアル本の宣伝文句に敏感になり、滑稽なほど踊らされる時期です。

自分の価値について煩悶していたのです。

そんな悩みに対して悶々としていたのを、一度リセットしてくれたのが「夜と霧」の著者、ビクトール・フランクルの考え方でした。

 

「人間が人生の意味は何かと問うに先立って、人生のほうが人間に問いを発してきている。だから人間は、ほんとうは、生きる意味を問い求める必要なんかないのだ。

人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて人生に問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、人生からの問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない。」

 

つまり、人生には意味があり、自分を待っている「何か」があり、そのためにできることがある。

この考え方は、何者かにならなければならないという焦りを救ってくれました。どんな時にも人生には意味があって、それに答えていくのでいいんだという救いです。

そして、フランクルの次の言葉は私を奮い立たせたものでした。

 

「あたかも2度目の人生を生きているかのように生きよ。そして、あたかも、あなたが今まさに誤って行為してしまおうとしているのと同じ過ちを、1度目の人生においてすでに行ったかのように生きよ。」