「火の鳥」

 

手塚治虫先生の「火の鳥」を全巻読んだのは、確か大学生の時に通った漫画喫茶で、だったと思います。

大判のコミックが全巻そろっていて、どの巻が最初でどの巻に続いているのかわからなくて、それぞれがリンクしているものの、ストーリーは一冊で完結していましたから、手に取ったものから順に読み進めていきました。

今から考えると、「未来編」か「黎明編」のどちらかから読み始めていた気がします。

それまで読んできた漫画とは桁違いに「時間軸」が壮大でしたし、個々の生命の終わりと同じように、種の存亡についても描かれる様は圧巻でした。

それを一つのストーリーに統べていたのが永遠の生命を持つ火の鳥の存在でした。時間や場所を超えて俯瞰していた火の鳥の眼差しは、まさに「神の眼差し」と言えました。

「火の鳥」は、手塚治虫先生の作品郡に共通して流れるテーマ「生命の尊厳」を描きながら、同時に「救いのない世界」も描いています。

「火の鳥」の世界観は、まさに無数の苦悩に満ち溢れたものです。

けれども、登場人物たちは必死で生きていますし、例えそれが無惨でも善も悪も自分の信じるものに向かっています。

私が幾つになっても惹かれる理由がそれです。

苦悩の世界に生きる人間賛歌の漫画と言えます。

 

 

映画「キング・オブ・コメディ」

 

「ジョーカー」を理解するには「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」を観るべし!と映画通の方が言っていて、それ以来ずっと気になっていました。

どちらもマーティン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロがタッグを組んだ映画です。

そして、先日やっと二つ目の「キング・オブ・コメディ」を観ることができました。

この映画は1982年公開なので、時代的にはタクシードライバーから6年経っています。

役作りのためか、6年という年月がそうさせたのか、ロバート・デ・ニーロの体つきが明らかに違っていたのが印象的でした。

しかし、どちらの映画も社会の片隅に生きる孤独の人間であることは変わりがなく、主人公のルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ)は妄想と現実との区別がつかなくなっていきます。

映画サイトからのあらすじです。

コメディアン志望の青年ルパートは、有名コメディアンのジェリーに接触し自分を売り込もうとするが全く相手にされない。そこでルパートは、ジェリーの熱狂的ファンである女性マーシャと手を組んでジェリーを誘拐し、自らのテレビ出演を要求する…。

テレビの人気番組のコメディアンに勝手に親近感を持ち、自分の妄想の中で自分の都合の良いように話を作り上げていく…。

そのプロットは「ジョーカー」にも取り入れられており、人気コメディアンの役を「ジョーカー」ではロバート・デ・ニーロが演じているのが、興味深いところです。

「ジョーカー」が単なる「バットマン」のスピンオフ映画ではなく、ゴッサムシティを舞台にした「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」をオマージュした映画なのだということがよくわかりました。

マーティン・スコセッシ監督へのリスペクトの表現なのでしょう。

傑作に仕上がった理由がわかった気がしました。

 

 

 

 

 

「こころ」と言葉

 

フロイトの精神分析の基本は、「『こころ』というものはすべて言葉でできている」というものでした。

世の流れだったとは言え、かつてウチナーグチを捨てようとしたばかりにアイデンティティを失いかけた沖縄の例を取り上げるまでもなく、「こころ」と言葉は密接な関係があります。

一方、仏教では「こころ」を「外の世界を認識するはたらき」と認識しています。

触覚をはじめ、感覚そのものが「こころ」だという表現をしている方もいらっしゃいます。

外の世界を感じたときに意識にのぼってきた言葉。

それが「こころ」の色を印画紙のように定着させます。

ですから、外から入ってくる情報が変化すると、「こころ」も変化していきます。

言葉によって、ストーリーをひとつひとつ積み重ねてしまうのです。

「こころ」が強いという方は、外からの情報に左右されない方です。

逆に弱い方というのは、外からの情報と一緒になって「こころ」が揺れ動いています。

「こころ」が揺れ動くとき、実況中継するように、できるだけ言葉で表現してみることをおすすめしています。

今、ストーリーがどんな展開なのか、言葉にして理解してみるのです。

外からの情報に振り回されているときは、それがすべてになってしまって、意外に自分の「こころ」がわからなくなっていることがあります。

情報の多さと速さに圧倒されてしまって、自分の言葉が、追いついていかないのです。

言葉を大事にするということは、自分の「こころ」を大事にすることです。

それは、今まで何度も言ってきたように、自分にしかできないことです。

自分のために、良い言葉を遣いましょう。

 

 

 

映画「ペンギン・ハイウェイ」

 

ふとしたきっかけで、アニメ映画「ペンギン・ハイウェイ」を観る機会がありました。

昨年公開の映画で、残念ながら公開当時には映画館で観れなかった映画です。

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あらすじ(映画紹介サイトから)

毎日学んだことをノートに記録している勉強家の小学4年生アオヤマ君は、通っている歯医者のお姉さんと仲良し。お姉さんも、ちょっと生意気で大人びたアオヤマ君をかわいがっていた。ある日、彼らの暮らす街に突然ペンギンが現れる。海もないただの住宅地になぜペンギンが現れたのか。アオヤマ君は謎を解くべく研究を始めるが、そんな折、お姉さんが投げ捨てたコーラの缶がペンギンに変身するところを目撃する。

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日常の中に突然に不思議なことが起きると、実は人はきっとこんなリアクションをとるしかないのだろうとなぜか納得してしまっている自分がいます。

それほど、物語の登場人物たちは案外、平気でいます。

突然ペンギンが現れたり、「海」を発見したり、そして、お姉さんの存在…。SF作品としても、秀逸なストーリーだと思いました。

アニメーションが描く世界としては、これほど適切な題材はないでしょう。妙に感心していました。

日本のアニメ映画は、やはり幅が広く、奥が深いですね。

 

 

 

 

 

絵本「わたしのげぼく」

 

私のネコとの関わりは、幼い頃には祖母がきれいなシャム猫を数匹飼っていましたが、今は近所に住む「ぶちこ」との接触ぐらいのものです。

縁側に寝そべっている「ぶちこ」に「あぁ~、びっくりしたぁ。ぶちこいたんだぁ~」と驚かされますが、ぶちこはそういう騒がしいリアクションにはすでに慣れっこになっていて、大きなあくびをひとつするだけで、そのまま居座っています。

その「ぶちこ」は愛嬌があって、時々通りに出て、帰宅途中のOLの皆さんを癒してさしあげているようです。

もしかしたら、新宿の母ならぬ「那覇のネコ」として、たくさんの人の悩みを聞き、そっと寄り添っているネコかも知れません。

ネコと人間との関わりは、極めて内省的ですし、同格です。

そんな絵本に出会いました。

 

 
 わたしのげぼく 上野そら・著 くまくら珠美・画

 

「わたしのげぼく」と言っている「わたし」はもちろんネコの方です。「げぼく」は、もちろん、その飼い主。

「げぼく」として認識しながら、ネコの飼い主に対する愛情があふれる絵本です。

 

YouTubeで、絵本のダイジェスト版を見つけました。

ネコ目線が、優しく、ちょっと切ない一冊です。

 

 

 

 

 

マンガ「響 ~小説家になる方法~」

 

いつの間にか完結していたんですね。

数年前にマンガ大賞を受賞した作品で、続刊を楽しみに読んでいました。

 

 響 ~小説家になる方法~

 

「天才小説家」の女子高校生、響(ひびき)は、常に己の価値観や信念を曲げず、それを押し通すためには暴力的であることを厭いません。

誰にも媚びない行動は、ヒーローもののマンガを読んでいるかのようです。

恐らく、現実社会では決して許されないようなことを、彼女は軽々とやってのけてしまいます。

「悩んでも仕方がない。やりたいと思ったことをやるだけ。」

彼女の主張は首尾一貫しています。

そういう姿に憧れてしまうのでしょうね。

残念ながら、高校を卒業するところでこのマンガは完結してしまいましたが、続編も楽しみにしたいと思います。

 

 

 

教わりやすい人

 

どんな状況でも「アドバイスされやすい人」になりたいと思います。

つまり、教えてもらう準備ができている人です。

人からの指導やアドバイスなどは必要ないというバリヤーは、できるだけ除いていたいです。

変化に対して柔和な気持ちがなければ、アドバイスを受けても頑な態度を崩せず、成長も望めなくなるでしょう。

不完全な私が出来てるふりをするのは、何より窮屈です。

アドバイスをした人間も、次はしたくないと思ってしまうかも知れません。

それと同じように、私は幾つになっても、自分の「先生」と呼べる人を持っていたいと思っています。

「この人の言うことは素直に聞ける」という人です。

幸いに、医療の分野や学問の分野だけではなく、趣味の分野(マジックやランニング、ギターなど)でも、私には「先生」がいます。

勝手に「先生」「師匠」と呼ばせてもらっていたり、先方には多少迷惑かもと思うのですが、それでも私は教えていただける幸せを感じています。

柔和で柔軟な心を保ち続けられるからです。

 

 

 

 

面白かったこと

 

今回のNAHAマラソンでは、とても良い経験をさせてもらったと思っています。

「このままでは制限時間に間に合わないギリギリの状況」に追い込まれるというのは、滅多に経験できるものではありません。

ネガティブな状況の時に、ネガティブな気持ちのまま動揺したり、とらわれたりすると、パフォーマンスがぐだぐだになります。

かと言って、無理やりポジティブに考えようとすると、その時の自分に嘘をついているわけですから、かなり自分を否定することになります。

余計に苦しくて辛くなり、どうして良いかわからず、途方に暮れていたかも知れません。

それこそ、閉じてしまったゲートの外側で立ち尽くすか、その場に座り込むしかなかったと思います。

あの時の私が、残り7Kmの時にやったことというのは、残り時間と残りの距離の計算。

そして、一歩足を運べば一歩前に進むという極めてシンプルなことの確認でした。

きっと「間に合わない」というのは、外側への意識でしょう。外側に意識が集中すると、意思や行動の妨げになります。

私が(意図していなかったのですが)やったことは、今考えると、内側を整えることになったのだと思います。

「一歩進む。前に進む。一歩進む。前に進む。…。」

すると、追い込まれているはずなのに、実はその状況を楽しんでいる自分に気づきました。

「心の切り替え」が自覚できた瞬間でした。

いつもできることではないと思います。

いろいろな要因が重なっていたとは言え、ああいう自分の心の変化を捉えられたのは、貴重な経験になりました。

面白かったです。

 

 

 

 

年末年始の祝日休診のお知らせ

 

12月になりました。

 

今月の外来診療についてお知らせいたします。

 

予約の患者さんだけでなく、予防接種などの日程を調整するために、年末・年始の外来診療の体制についてお問い合わせをいただくことが多くなってきました。

 

今年は12月30日(月)まで外来診療を行っておりますが、午前のみの診療になっております。

 

午後からは休診となります。

 

31日(火)から1月3日(金)までは年末・年始の祝日のため休診です。

 

新年は1月4日(土)より通常の外来診療となります。(土曜日ですので、午前のみの診療です。)

 

ご迷惑をおかけしますが、ご了承くださいますようお願いいたします。

 

 

 

第35回NAHAマラソン

 

今日は第35回NAHAマラソンに参加してきました。

日差しが強く、肌に痛いほどの快晴でした。

平和祈念公園の駐車場が整備のために工事をしているため、第一制限地点を移動しての大会でした。

ですから、多少昨年のコースとは違っていました。

コースの変更などは微々たるもので、走りに少しも影響していないのですが、今日は私にとってはとにかく暑すぎました。

暑さ対策をしっかりとしていたつもりでしたが、足が重く、スピードが思ったほど上がりません。

何人かのスタッフが応援にかけつけてくれたのですが、35Km地点では私のきつそうな表情を見て心配するほどだったようです。

「大丈夫ですか?」という問いかけに、正直に「きついねぇ」と答えました。

「(制限時間に)間に合いますかね?」という問いかけには「間に合うかなぁ」とオウム返しするしかありませんでした。

恐らく同じペースなら、絶対無理な計算です。

残り4Kmの表示が見えた時に、制限時間の6時間15分までを逆算しました。

「うわぁ。今日は無理かも。」

いつもの体調なら「よし、いこう!」と奮起するところでしたが、一瞬諦めかけたのは私の弱いところです。

こういう時は自分のためには走れない、頑張れないというのを知っているので、脳内で発想を組み立てなおしました。

(おお、意外に動く!)

エンジンに燃料がやっと到達したようです。

NAHAマラソンの制限時間にはゴールのある陸上競技場のゲートが閉まります。

その閉門の3分前、6時間12分に私はゲートを通過することができました。

NAHAマラソンは3年連続で今年で3回目ですが、今年のゴールが一番うれしかったかも知れません。

とにかく、沿道の皆さんの応援がすごかった。

ランナーだけが暑いのではなく、ボランティアの皆さんも暑かったはずです。

絶え間のない声援が背中を後押ししてくれました。感謝しかありません。ありがとうございました。