かつて「脳トレ」という言葉が、テレビや書店を埋めていた時期がありました。
計算問題を解き、漢字を思い出し、短時間で正解数を競う。
家庭の引き出しのどこかに、あの頃のゲーム機やソフトが残っているかもしれません。
やがて熱は落ち着き、「脳トレ」という言葉だけは残りました。
流行は去りましたが、疑問は残りました。
果たしてあれは脳に効果があったのか。
米国で行われたACTIVE研究は、この疑問に長い時間軸で答えようとしました。
65歳以上の高齢者を無作為に三つの認知トレーニング群と対照群に分け、20年間にわたり医療保険データから認知症(ADRD)の診断を追跡した研究です。
訓練は「記憶」「推論」「処理速度」の三種類。
いずれも5〜6週間、約10回のセッションで実施され、一部はその後に追加訓練も受けました。
20年後、対照群では約半数が認知症と診断されていました。
記憶訓練や推論訓練では、その割合に明確な差はみられませんでした。
違いが現れたのは「処理速度」を鍛え、さらに追加訓練まで受けた群でした。
診断リスクはおよそ25%低下していました。
ここで浮かび上がるのは、「何を鍛えたか」の違いです。
記憶訓練では、覚え方の工夫を学びます。
語呂合わせ、イメージ化、整理の方法。
うまくいけば成績は上がります。
推論訓練では、規則を見抜く練習をします。
問題の型をつかみ、解き方を身につける。
どちらも戦略を学ぶ形式です。
一方、処理速度訓練は少し違います。
画面中央に一瞬だけ現れる図形を見分けながら、同時に周辺に出る標的にも注意を向けます。
表示時間は極めて短く、正答が続くとさらに短縮されます。
難易度は自動的に上がります。
そこには「覚え方」はありません。
ただ、速く見る。
速く判断する。
速く反応する。
その回路を繰り返します。
戦略を磨く訓練と、回路に負荷をかける訓練。
この違いが、20年後の診断に影響した可能性があります。
加齢とともに変化しやすいのは、複数の情報を同時に扱う力や、注意を素早く切り替える力だとされています。
処理速度訓練は、その基盤部分に直接働きかけるものでした。
覚える技術を増やすのではなく、情報が流れる通路そのものに刺激を与える。
そう考えると、結果の差は単なる偶然では説明しきれません。
もちろん、この研究にも限界はあります。
診断は医療請求データに基づき、追加訓練は条件を満たした参加者に限られていました。
それでも、無作為化試験の参加者を20年追跡し、実際の診断と結びつけたデータは重い意味を持ちます。
「脳トレ」という言葉は流行語としては消えたかも知れません。
しかし、その効果は消えていませんでした。
覚え方を増やすことと、速さを保つ訓練をすること。
そのどちらが老いに抗う力になりうるのか。
引き出しの奥にしまってあるあのソフトを、もう一度取り出してみたくなりませんか?
参考文献:
Coe NB, Miller KEM, Sun C, et al. Impact of cognitive training on claims-based diagnosed dementia over 20 years: evidence from the ACTIVE study. Alzheimers Dement (N Y). 2026;12(1):e70197. Published 2026 Feb 9. doi:10.1002/trc2.70197

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。