映画『潜水服は蝶の夢を見る』(2007年)。
脳卒中によって身体の自由をほとんど失った編集長ジャン=ドミニク・ボビーは、左目のまばたきだけを使って自伝を書き上げます。
動かない身体は潜水服のように彼を閉じ込め、まばたきで紡ぐ文字は、その内側から外界へ伸びる唯一の通路でした。
書くことが、彼にとって「自分を保つ行為」そのものになります。
今回紹介する研究は、この“書く”という営みが、私たちの脳と心をどう立て直すのかを追っています。
背景には、心理学者ジェームズ・ペネベイカーが提案したエクスプレッシブ・ライティングがあります。
つらい体験を数日にわたり書き続けると、ストレス反応が落ち着き、長期的にも心身の状態が整うという報告が続いてきました。
研究者は、日記や短文を書く学生たちが、自分という物語の輪郭を取り戻していく様子を観察してきたと述べています。
書くことは記憶の整理であると同時に、自己像の再構成でもあります。
文章を書くとき、脳では複数の領域が連動します。
海馬は出来事を呼び出し、前頭葉はその意味を整理し、側頭葉が言葉を選び、運動野が手を動かします。
書く行為はこれらをひとつの流れにまとめ、短期記憶を長期記憶へ配置し直します。
経験が整理されると、感情の波に巻き込まれにくくなります。
感情に名前を与えることにも効果があります。
不安や怒りを書き留めるだけで扁桃体の反応が下がり、前頭前野が状況を冷静に扱いやすくなると報告されています。
スマホに短いメモを書く程度でも、頭の中の混乱が軽くなります。
タスクを書き出す行為も、決断に向かう回路を整える助けになります。
研究が勧める実践のコツはいくつかあります。
手書きで書くこと。
身体感覚が伴い、思考の速度が適度に落ち着きます。
一日に数行でよいので、心に残った出来事や気持ちを書き留めること。
強い感情が湧いた時には、相手に言葉を返す前にノートに書き出すこと。
出さない手紙を書く方法もあります。
外側に言葉を置くことで、内側に余白が生まれます。
書くことは、他者の視点を取り入れる機会にもなります。
下書きをつくり、誰かに読んでもらい、意見をもとに書き直す過程は、自分の思考の癖を知る手がかりになります。
物語を練り直すこと自体が、脳の回路を少しずつ組み替える作業になります。
ただし、この研究の対象は主に学生で、年齢や文化が異なる集団にどこまで当てはまるかには追加の検証が必要です。
また、深刻なトラウマを扱う際には専門家の支援が欠かせません。
書くことが万能であるわけではなく、環境と手助けがあって初めて効果が安定します。
映画のラストで、ボビーがまばたきで紡いだ言葉は、閉ざされた身体の内側から世界へ橋を架ける力を持っていました。
私たちが今日ひらくノートの一行もまた、心の奥に新しい回路を生みだすかもしれません。
状況が変わらない日であっても、内側の物語だけは書き換えられる。
その小さな自由が、レジリエンスの始まりになると感じます。
参考文献:
Johnston ER. Writing builds resilience by changing your brain, helping you face everyday challenges. The Conversation. Published November 24, 2025. Accessed December 3, 2025. doi:10.64628/AAI.7et5jtpdq

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
