待合室を見渡していると、家族の並び方に目が止まることがあります。
元気な男の子を3人連れてぐったりしているお母さんもいれば、年の近い3姉妹が同時にしゃべって場を明るくしているお母さんもいる。
診療の合間に、そうした光景がごく自然に目に入ってきます。
医学教育では、受精(じゅせい)の瞬間に決まる性別は基本的に偶然で、確率はほぼ2分の1と教わります。
集団全体で見れば、男の子はわずかに多く、その比率は長い間ほとんど変わっていません。
だから同性の兄弟姉妹が続くのは、たまたま同じ面が何度か続けて出ただけだと説明されます。
外来で「次は女の子が欲しいのですが」と言われても、「こればかりは運ですからね」と答えるのが、科学的に誠実だと考えてきました。
それでも、長く家族を見続けていると、どうしても拭えない違和感が残ります。
本当にすべてが同じ確率で起きているのだろうか。
「あの家は代々、女の子ばかり」といった話を、迷信として切り捨ててしまっていいのか。
そんな臨床の感触に、正面から向き合った研究があります。
この研究が頼りになるのは、個人の印象論では片づけられない規模で、家族の歴史を追いかけている点です。
研究者たちは、「性別は誰にとっても同じ確率で決まる」という考え方と、「家族ごとに、男の子や女の子が生まれやすい傾向が少しずつ違うかもしれない」という考え方を比べました。
さらに、「男女どちらかがそろうまで子どもをもうけ、そろったところで出産を終える」という、私たち人間らしい家族計画の影響をできるだけ取り除く工夫も加えています。
すると、子どもが3人以上いる家庭では、男の子だけ、あるいは女の子だけという並びが、単なる偶然では説明しにくい頻度で現れてきました。
しかも、その傾向は「最後の出産」を外して見ても消えませんでした。
男の子が続いた家庭では次も男の子になりやすく、女の子が続いた家庭でも同じことが起きています。
第一子を産んだ年齢が高い母親ほど、こうした偏りが目立つ点も見逃せません。
研究者は、母親側の体の条件や遺伝子の関与にも目を向けていますが、ここはまだ形が定まっていない段階です。
ただ、「完全に同じコインを、完全に同じ条件で投げ続けているわけではなさそうだ」という感触だけは、はっきり残ります。
この研究が示しているのは、「次は男の子か女の子か」を予言できるようになった、という話ではありません。
多くの家庭では、これまで通り男女は入り混じります。
それでも、家族という単位で見たとき、偶然という言葉だけでは収まりきらない揺らぎがある。
その揺らぎは、親の願いや行動と、生物学的な条件が重なり合ったところに生まれているように見えます。
もちろん、この結果をそのまま日本のすべての家庭に当てはめることはできません。
対象となった人々の背景には偏りがあり、父親側の要因や環境の影響も十分に見えているわけではありません。
だからといって、「結局よく分からない話」と片づけてしまうのも違います。
次に外来で「うちは男ばかりで」と話すお母さんに出会ったとき、その言葉を以前より少し違った重みで受け取ることはできそうです。
それは偶然のいたずらかもしれないし、その家族が持っている体のリズムなのかもしれない。
確率は単なる数字にすぎませんが、家族という枠に置くと、その数字は私たちの思い込みを正してきます。
コインが歪んでいるのか、投げ方が歪んでいるのか。
その境目を見極める作業は、まだ続くことになります。
参考文献:
Wang S, Rosner BA, Huang H, et al. Is sex at birth a biological coin toss? Insights from a longitudinal and GWAS analysis. Sci Adv. 2025;11(29):eadu7402. doi:10.1126/sciadv.adu7402

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
