マジックショップの棚に並ぶ赤いスポンジボール。
そのパッケージに描かれた、ちょび髭の男性の笑顔を見たことがある人も多いはずです。
私が初めてそのボールを手に取ったとき、その柔らかい感触の奥に、ひとりの奇術師の濃密な人生が潜んでいるとは思いもしませんでした。
今日は、一人のマジック・ファンとして、アルバート・ゴッシュマンという人物を語りたいと思います。
1920年、ニューヨーク・ブルックリン。
パン職人の家に生まれた彼は、自らもベーカリーを営みながら生計を立てていました。
ところが大型チェーンの進出で店を失い、転業した写真業では商売道具を盗まれるという不運が続きます。
この二度の挫折が、彼をプロのマジシャンへと導く転換点となりました。
1960年代初頭、マジック・キャッスルが開設された頃からその舞台に立ち、1968年には初代「クローズアップ・マジシャン・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。
彼が生涯をかけて磨き上げたのが、「The Act」と呼ばれる約20分の手順でした。
スポンジボール、ソルト&ペッパー・シェーカー、コイン。そしてナプキン。
どれも日常の道具にすぎませんが、彼の手にかかるとそれらは一つの物語の中で役割を与えられ、生き物のように動き始めます。
生涯で実に6万回以上も演じられたこのアクトは、単なる技法の披露ではなく、観客の視線と感情の流れを緻密に編んだ“構築物”でした。
その象徴が、塩と胡椒の瓶の下からコインが現れるシーンです。
観客の心理的な“死角”を突きつつ、あくまでも自然体のまま手順が進みます。
スポンジボールの素材を天然海綿から柔らかい発泡体へ改良し、量産化できる形にしたのも彼でした。
さらに膝上のナプキンを使い、テーブルの上下をひとつの舞台としてつなぐ「ラッピング」という技法をショーの中に滑らかに溶け込ませました。
そんな精密な世界を形づくっていたのが「The Magic is You(魔法はあなた自身)」という彼の哲学です。
食べこぼしのシミがついたシャツ、整えられない髪。
けれど、その外見とは裏腹に、指先は針の穴を通すように正確でした。
この強烈な対比が観客の警戒心をゆるめ、逆に不思議さを際立たせる武器になったのです。
小麦粉まみれのエプロン姿で、ダイ・バーノンのもとへ修行に通ったという逸話も、その無頓着な外側と内に秘めた情熱を象徴しています。
もちろん、完璧ではない側面もありました。
技法のクレジットをめぐり、日本の石田天海と名前の混乱が生じたこともあります。
しかし記録をたどれば、彼自身は天海を深く尊敬していました。
晩年は病を抱えながらも、舞台に立つまで指の震えを抑えるため、毎朝、水の入ったグラスを一定角度で保つ訓練を欠かさなかったと伝えられています。
大げさな機械や華やかな衣装に頼らず、“自分自身”という最小の道具を磨き続けた人間の姿が、ここにあります。
1980年代、彼は何度も来日しました。
英語が通じなくても、「No, no, no!」という身振りと笑顔だけで日本の観客と心を通わせ、ステージを沸かせた映像が残っています。
現在、彼の遺した会社は息子のスティーブに受け継がれ、その製品は世界中で愛されています。
スポンジボールを手にするとき、私は今でもあの柔らかさの奥に、パン職人だった男の体温と、彼が積み上げた6万回分の呼吸を感じます。
派手さはなく、華美でもない。
ただ、手の中の小さな道具に自分の人格を注ぎ込み、それだけで観客を魅了し続けた男がいた。
その事実だけで、スポンジボールは今も確かに魔法を宿しています。
【実際の映像:The Act】
百聞は一見に如かず。彼が生涯をかけて磨き上げた「The Act」の映像をご覧ください。 言葉がわからなくても大丈夫です。彼の表情、間の取り方、そして観客の「No, no, no!」という笑い声─そのすべてに、私がこの文章で触れたかった“魔法”が宿っています。(約10分)

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
