出張の前泊で、慣れないホテルに泊まった夜、電気を消してからが本番になる。
明日は朝から大事な仕事がある。
失敗は許されない。
体は疲れている。
条件は揃っている。
なのに眠れない。
布団の感触も、空調の音も、いつもより強く意識に残る。
時計を見るたびに、残された睡眠時間が削られていく。
眠れないこと自体が、すでにリスクになっている。
こういう夜に、「環境が変わると眠れないからね」という言葉は役に立たない。
原因を説明されても、事態は改善しない。
むしろ、自分は肝心なときに眠れない人間なのではないか、という疑念だけが残る。
焦りが覚醒を強め、覚醒がさらに眠りを遠ざける。
その循環の中で、夜はじわじわと人を追い詰めてくる。
この感覚は、例外的な失敗ではありません。
動物も人間も、新しい環境に置かれると覚醒度が高まります。
周囲が安全かどうか分からない以上、眠るよりも状況を把握する方が合理的だからです。
慣れない場所で迎える最初の夜に眠りが浅くなる現象は「初日効果」と呼ばれ、経験的には昔から知られてきました。
ただし、それは名前がついているだけで、なぜ起きるのか、脳の中で何が動いているのかは長く曖昧なままでした。
名古屋大学の研究グループが向き合ったのは、この「眠れないと困る状況」に、脳がどう反応しているのかという点です。
注目されたのは、拡張扁桃体と呼ばれる脳領域でした。
ここは情動やストレス処理に関わり、「安全かどうか分からない」という判断と結びつきやすい場所です。
この領域が、新しい環境で覚醒を保つ役割を担っているのではないか。
そこが研究の出発点でした。
実験では、マウスを慣れた環境と初めての環境に置き、脳内の神経活動と睡眠に入るまでの時間を比較しました。
さらに、特定の神経を一時的に働かせたり抑えたりして、覚醒がどう変化するかを調べています。
方法や数値は専門的ですが、問いは一貫していました。
新しさは、どこで覚醒へと変換されるのか。
慣れた環境では、マウスは比較的スムーズに眠りに入ります。
一方、新しい環境では、拡張扁桃体の中にあるCRF神経という集団が活発になり、覚醒が長く続きました。
この神経の働きを抑えると、新奇環境でも眠りに入るまでの時間が短くなります。
さらに、この神経が放出するニューロテンシンという物質を欠くと、覚醒を維持する力そのものが弱まることも確認されました。
ここで重要なのは、「眠れない」のが暴走ではないという点です。
脳は新しい環境を前に、「まだ分からない」という状態を検出します。
そして拡張扁桃体から中脳へ信号を送り、全身を覚醒側に傾ける。
眠りを後回しにする判断が、回路として組み込まれているのです。
確認が終わるまでは眠らない。
その選択は、かつて生存と直結していました。
この仕組みを知っても、出張先の夜が突然楽になるわけではありません。
研究は動物実験に基づいており、人間の不眠すべてを説明できるわけでもない。
それでも、「眠らなければならない夜に眠れない」という経験が、意志の弱さや失敗ではなく、脳が状況を測ろうとする反応だと分かるだけで、夜の意味は変わります。
あの夜、目が冴えていたのは、あなたが大事な仕事を前に壊れていたからではありません。
脳は、まだ確認が終わっていないと判断していただけです。
眠れなかった時間は、無駄でも敵でもなく、状況を見極めようとする古い仕組みの延長線上にあった。
その視点が加わると、同じ夜でも、輪郭は少し違って見えてきます。
参考文献:
Hung CJ, Ueda S, Rahaman SM, et al. Neurotensin in the extended amygdala maintains wakefulness in novel environments. Proc Natl Acad Sci U S A. Published online February 3, 2026.

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
