気がつくと、妻はよく鼻歌を口ずさんでいます。
歌と呼ぶほど整った旋律ではなく、正体のわからないメロディに、「んー」という発声が重なっているだけのものです。
「機嫌がいいんだね」と声をかけると、妻はきょとんとした顔で「どうして?」と返します。
鼻歌を口にしていたことを伝えると、「え、そうだった?」と笑い、「無意識だった」と少し照れたように言いました。
本人にとっては、気分を表現しているつもりも、何かを調整している意識もありません。
それでも、その場の空気はどこか緩み、呼吸の速さや声の調子が落ち着いているように見えます。
理由のわからない安心感が、音と一緒に部屋に広がっていく感覚です。
このような無意識の鼻歌は、特別な性格や音楽的嗜好の話ではありません。
多くの人が、考え事の合間や作業中、あるいは緊張がほどけた瞬間に、同じような音を喉の奥で鳴らしています。
長らくそれは「癖」や「気分の問題」として扱われてきましたが、近年、その背後で起きている身体の反応に注目が集まっています。
研究者たちが注目したのは、ハミングと呼ばれる、ごく弱い発声を伴う呼気です。
声帯を強く使わず、口を閉じたまま「んー」と息を吐く行為が、自律神経の働きとどのように関係しているのかが調べられました。
自律神経は、心拍や呼吸、血流といった無意識の調整を担う系で、緊張時に優位になる系と、休息時に前に出る系がバランスを取り合っています。
研究では、被験者に短時間のハミングを含む呼吸を行ってもらい、その間の心拍の揺らぎが測定されました。
心拍変動と呼ばれるこの揺らぎは、一定であるほど良いわけではなく、むしろ細かな変化が保たれている方が、身体が環境に対応できている状態と考えられています。
安静に座っているだけの場合と比べ、ハミングを伴う呼吸では、この揺らぎが大きくなる傾向が観察されました。
とくに、息をゆっくり吐く時間にハミングを重ねたとき、心拍の間隔は単調にならず、柔らかな変動を保ちます。
これは、緊張に関わる反応が後退し、休息に関わる反応が前に出てきたことを意味します。
喉や鼻腔に生じる微細な振動は、脳と胸腹部を結ぶ神経経路に伝わり、心拍や呼吸の調整に影響を及ぼしていると考えられています。
また、鼻腔内の空気の流れが変わることで、血流や呼吸効率に関わる物質の産生が増えることも報告されています。
こうした変化は、気分を良くしようと意識する前に起きます。
音を出すことが感情を操作するのではなく、身体の状態が先に切り替わり、その結果として心の張りが緩む、という順序です。
この仕組みは、壊れたスイッチを無理に押し直すようなものではありません。
むしろ、絡まった糸を軽く揺らして、自然にほどける方向を探る動きに近い。意識的な努力や理解を必要とせず、身体が自分で戻り道を選び直しているようにも見えます。
もちろん、こうした研究は観察条件が限られており、すべての人に同じ反応が起きるわけではありません。
それでも、妻が無意識に鳴らしていたあの「んー」という音が、単なる癖ではなく、身体の調整動作の一部だった可能性は残ります。
理由も目的も持たない小さな音が、いつの間にか自分の状態を支えている場面は、思い返してみると、日常のあちこちに潜んでいるのかもしれません。
参考文献:
How humming can reduce stress and relax your body (and the right way to do it). The Times of India. Published December 14, 2025. Accessed February 7, 2026.

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
