会議で三人の同僚が、同じ出来事について報告している場面を想像してみてください。
一人目の説明は筋が通っている。
二人目の話も、別の角度から見れば正しい。
三人目も同様です。
誰も嘘はついていないし、論理の飛躍もない。
ところが、その三つの報告を一枚の報告書にまとめようとすると、どうしても破綻する。
どこかを書き直さない限り、整合した文章にならないのです。
私たちは普段、こうした事態を例外だと考えます。
視点が違っても、最後には一つの事実に収束するはずだ、と。
見方が違うだけで、現実そのものが食い違うはずはない。
科学もまた、その前提の上に築かれてきました。
名探偵コナン君の「真実はいつもひとつ!」という感覚が共通認識だったわけです。
ところが、量子の世界では、この前提が最初から通用しません。
ミクロな世界では、「何を測るか」だけでなく、「どの組み合わせで測るか」によって、結果の意味が変わってしまう。
どの測り方でも、その場では完全に筋が通っているのに、それらを同時に満たす一つの説明を用意しようとすると、論理が崩れてしまうのです。
この性質はコンテクシュアリティ(文脈依存性)と呼ばれます。
重要なのは、これは測定誤差や観測者の主観の話ではないという点です。
測定結果がその場しのぎで決まるのではなく、あらかじめ「すべての状況に共通する値」を割り当てること自体が不可能だという、構造的な制約を指しています。
そのことを最も鋭く示す道具が、GHZ型パラドックスです。
GHZ型パラドックスでは、それぞれの条件下では完全に正しい結果が得られます。
ところが、それらを一つの裏設定、つまり「本当はこうだった」という共通の説明にまとめようとすると、必ず矛盾が生じる。
しかもそれは確率の問題ではなく、どんな考え方をしても筋が通らなくなってしまう、という形で現れます。
ただし、ここには長年の未解決問題がありました。
GHZ型パラドックスは知られていたものの、どれも構成が複雑だったのです。
多くの測定条件や組み合わせを必要とし、「難しすぎるから変なことが起きたのではないか」という逃げ道が残っていました。
コンテクシュアリティが量子の本質だとしても、それがどこまで削ぎ落とされた形でも不可避なのかは、はっきりしていなかった。
今回の論文が挑んだのは、まさにその一点です。
条件を削り、視点を減らし、「これ以上は減らせない」というところまで切り詰めても、なおGHZ型パラドックスは残るのか。
研究者たちがたどり着いた答えは、三つでした。
三つの文脈。
三つの見方。
それぞれ単独なら、完全に整合した結果が得られる。
しかし三つを同時に満たす共通の説明は、どうしても作れない。
しかも、これ以上文脈を減らすことは理論的に不可能だと示されました。
三つが下限だったのです。
ここでGHZ型パラドックスは、初めて装飾を剥ぎ取った最小の姿を現します。
複雑だからおかしいのではない。
量子が気まぐれなのでもない。
ごく限られた、整理された状況ですら、世界を一つの物語として保存できない。
研究者たちはさらに、この構造を実験で確かめました。
光を使い、時間方向に情報を並べることで、高次元の量子状態を作り出し、三つの文脈に対応する測定を行う。
その結果は理論の予測と一致しました。
各文脈では完全に整合的。
しかし全体を古典的な説明で包もうとすると、破綻する。
そのことが、実際のデータとして示されたのです。
ここがこの研究のクライマックスです。
GHZ型パラドックスは、思考実験でも哲学的主張でもなくなりました。
三つの文脈だけで、世界を一つの裏設定で説明できないことが、論理と実験の両方で確定したのです。
この論文が教えてくれるのは、「現実は主観的だ」という話ではありません。
むしろ逆です。
現実は驚くほど厳密で、曖昧さを許さない。
その厳密さゆえに、どの視点にも通用する共通フォーマットを持てない場合がある。
正しい報告が三つあっても、一冊の報告書にはならない。
GHZ型パラドックスは、その不可能性を、これ以上削れない形で示しました。
世界は常に一つにまとまるとは限らない。
その事実が、ようやく言い逃れのできない形で、私たちの前に置かれたのです。
参考文献:
Liu ZH, Meng Y, Wu YZ, et al. Exploring the boundary of quantum correlations with a time-domain optical processor. Sci Adv. 2025;11(5):eabd8080. doi:10.1126/sciadv.abd8080

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
