患者になりたがる私たち— SNS利用を「依存」と呼ぶことは、本当に救いなのか

患者になりたがる私たち— SNS利用を「依存」と呼ぶことは、本当に救いなのか

 

夜、ベッドに腰を下ろした瞬間、特に理由もなくスマホを手に取ってしまう。

画面を閉じたあと、胸の奥に薄い重さが残る。

「またやってしまった」

この一言を、私たちはずいぶん手際よく強い言葉に置き換えてきました。

自分はSNSに依存しているのだ、と。

 

行動が自分の思いどおりにならないとき、人は説明を欲しがります。

意志が弱いと言われるのはつらい。

習慣だと認めれば、環境を変える工夫が要る。

そのどちらよりも、「脳の仕組みのせい」という語りは簡潔で、納得しやすい。

けれど、その説明が自分自身をどんな位置に置くのかは、あまり意識されてきませんでした。

 

この研究が焦点を当てたのは、SNSをどれだけ使っているかではありません。

利用者が自分の行動をどう理解しているか、です。

「やめたいのに繰り返し、生活に影響が出る依存」なのか、「特定の状況で自動的に起きる習慣」なのか。

そのどちらの枠組みで自分を見ているかが、手応えにどう影響するのかを確かめました。

 

調べ方はシンプルです。

多くの利用者に、SNS使用の自動性や、コントロールできている感覚、自分への責めの強さを尋ねました。

さらに別の場面では、「SNSは依存性がある」という警告的な文章に触れた直後、人が自分の利用をどう評価するかを比べています。

時間は短く、介入は最小限でした。

 

それでも、変化ははっきりしていました。

臨床的な意味で依存と呼べる人はごく少数なのに、「自分は依存だ」と感じている人はそれよりずっと多い。

そして、その認識が強いほど、「自分にはどうすることもできない」という感覚が強まり、過剰な利用に対する自責が強くなっていました。

行動そのものより先に、自己像が揺らいでいたのです。

 

多くのSNS利用は、退屈や通知音、手の届く場所にある端末と結びついた行動です。

これは病理というより、よく学習された反応です。

習慣であれば、合図を減らす、別の行動を用意するなど、意志の力に頼らない変更が可能です。

ところが「病気」というラベルを貼った瞬間、その行動は専門的な治療が必要な領域へと移され、自分の工夫が届かない場所に置かれてしまう。

 

一見すると、「依存」という言葉は救いに見えます。

責めなくていい理由を与えてくれるからです。

しかし同時に、それは「自分には変えられない」という前提も一緒に渡します。

免罪符として使った言葉が、結果的に無力感を学習させてしまう。

その逆説を、この研究は淡々と示しています。

 

もちろん、すべてを習慣で片づけられるわけではありません。

本当に支援や治療が必要な人もいます。

問題は、変えられる余地の大きい行動まで、同じ枠で囲ってしまうことです。

説明がつくことと、先が開けることは、必ずしも同じではありません。

 

スマホを取る指は、悪意で動いているわけではありません。

状況に反応し、繰り返し学んだ結果です。

その行動をどの言葉で呼ぶかは、次の一手の大きさを左右します。

患者として自分を見るのか、書き換え可能な習慣として眺めるのか。

その違いは小さく見えて、これからの余地を確かに変えていきます。

 

参考文献:

Anderson IA, Wood W. Overestimates of social media addiction are common but costly. Sci Rep. 2025;15(1):39388. Published 2025 Nov 27. doi:10.1038/s41598-025-27053-2

 

 

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。