集団の中で体調が悪くなったとき、人はなるべくそれを隠そうとします。
弱っていると知られれば、役割を外されたり、距離を置かれたりするかもしれないからです。
学校でも職場でも、少し無理をして平然を装う場面は珍しくありません。
この反応は、人間に限った話ではありません。
多くの動物でも、病気の兆候は隠されがちです。
ところが、アリの社会には、正反対の行動が見つかりました。
これまでの研究では、社会性昆虫の集団が病原体に対して集団的に対処することは知られていました。
病気の個体を世話して回復を助ける場合もあれば、重症の場合には巣から排除したり、破壊したりする行動もあります。
ただ、その引き金がどこにあるのかは曖昧でした。
病気になった側が「見つかってしまう」のか、それとも自ら合図を出しているのか。
その違いは、集団のあり方を考えるうえで大きな意味を持ちます。
今回扱う研究は、アリのさなぎが病原体に感染したとき、ある条件下で自分の状態を積極的に伝えていることを示しました。
しかもその合図は、「助けてほしい」という信号ではありません。
仲間に自分を処分させるための、いわば覚悟の合図でした。
ここで研究者が見ようとしたのは、個体の免疫がうまくいかなくなった瞬間に、何が起きているのかという点です。
研究の舞台は、庭に普通に見られるアリの巣です。
病原体にさらされた「さなぎ」を、仲間の働きアリがいる状況と、いない状況に分けて観察しました。
細かな数値や装置の話を抜きにすれば、焦点は単純です。
仲間がそばにいるとき、さなぎのふるまいは変わるのか。
そしてその変化は、仲間の行動を左右するのか。
観察されたのは、ある瞬間のはっきりした切り替わりでした。
感染した働きアリのさなぎは、仲間が近くにいるときにだけ、体表の化学的な匂いを変えます。
その匂いを感じ取った仲間は、ためらうことなくさなぎを包みから取り出し、破壊します。
一方で、女王になるさなぎは同じ病原体にさらされても、その匂いをほとんど出しません。
結果として、仲間から処分されることもありませんでした。
ここで心を動かされるのは、これが「裏切り」ではなく、状況を見極めた上での「判断」だという点です。
女王さなぎが合図を出さないのは、集団を危険にさらしているからではありません。
彼女たちは自分の免疫で感染を抑え込める力を持っていました。
時間が経つにつれ、体内の病原体は減っていきます。
対照的に、働きアリのさなぎでは感染が広がり続けました。
自力で回復できないときにだけ、処分を求める合図が出る。
そこには、無駄な犠牲を避けつつ、集団全体を守るための分岐点が存在していました。
この仕組みは、冷酷さよりも精密さを感じさせます。
すべての病気個体を一律に排除するのではなく、「もう戻れない」ときに限って自分を差し出す。
その合図は、仲間のためであると同時に、これまで集団の一部として生きてきた自分の役割の延長でもあります。
私たちが体調不良を隠すとき、そこには個人としての生存戦略があります。
アリのさなぎが匂いを変える瞬間には、個体を超えた時間の流れが重なって見えます。
そして、集団の中で生きるとはどういうことなのか、その意味をあらためて考えさせられます。
参考文献:
Dawson, E.H., Hoenigsberger, M., Kampleitner, N. et al. Altruistic disease signalling in ant colonies. Nat Commun 16, 10511 (2025). https://doi.org/10.1038/s41467-025-66175-z

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
