脳は「忘れる」まで粘り続ける― 記憶が抜ける瞬間の背後で起きていること

脳は「忘れる」まで粘り続ける― 記憶が抜ける瞬間の背後で起きていること

 

リビングの真ん中で立ち尽くし、「あれ、何を取りに来たんだっけ」と天井を仰ぐ。

あるいは、旧友の名前が喉元でつっかえて出てこない。

そんなありふれた日常の一コマに、ふと冷たい影が差すことがあります。

「私の脳は、もう縮み始めているのではないか」。

年齢とともに脳の容積が減り、それと歩調を合わせるように記憶もこぼれ落ちていく。

私たちは無意識のうちに、そんな一直線の「下り坂」を思い描いています。

 

しかし、世界中の研究機関が集めた膨大なデータは、脳がそれほど単純な存在ではないことを示します。

13の長期追跡研究を統合した解析では、認知的に健康な成人3,700人余りの脳画像と記憶の変化が、長い時間をかけて追跡されました。

そこから浮かび上がったのは、脳が物理的に縮むことと、記憶が失われていくことが、必ずしも同時には進まないという事実でした。

 

鍵になるのは、変化の「速さ」です。

研究では、同年代と比べて脳の萎縮が緩やかな人々と、平均より速く進む人々とが区別されました。

前者では、脳に変化が生じていても、記憶の低下と明確に結びつくことはありませんでした。

脳には、ある程度の物理的な変化を受け止めながら機能を保つ余地があるように見えます。

 

一方で、その余地には限りがあります。

萎縮が加速し、一定の水準を超えたとき、初めて脳の構造的な変化が記憶の低下と重なり始めます。

特に、出来事の記憶を支える海馬だけでなく、感情や判断に関わる複数の領域で、その連動が目立ってきます。

脳全体が、構造と機能の均衡を保てなくなる地点が、確かに存在するのです。

 

この境目は、年齢とともに見えやすくなります。

50代、60代では個人差に紛れていた関係が、70代、80代になると輪郭を帯びてきます。

ただし、それは「ある年齢を超えたら必ず起こる」という話ではありません。

問題になるのは、年齢そのものより、変化がどれほど大きく、どれほど速く進んでいるかでした。

 

アルツハイマー病のリスク因子として知られる遺伝的特徴を持つ人では、脳の変化や記憶の低下がやや早く現れる傾向はあります。

それでも、脳の変化が記憶に影響を及ぼす仕組みそのものが、特別に変わるわけではありません。

記憶が失われていく過程の基本的なルールは、誰にとっても共通しています。

 

脳の構造は、時間とともに確実に変わっていきます。

それは避けられない生命の過程です。

それでも、脳は変化した瞬間に機能を手放すわけではありません。

限界に近づくまで、何度も均衡を取り直しながら、記憶をつなぎ止めようとします。

 

次にまた、鍵の置き場所を思い出せずに立ち尽くすことがあっても、それは壊れた合図とは限りません。

むしろ、長年使われてきた脳が、変わりゆく構造の中で、なお働こうとしている痕跡なのかもしれません。

 

そのことに気づいたとき、あの一瞬の戸惑いは、以前とは少し違って感じられるはずです。

 

参考文献:

Vidal-Piñeiro, D., Sørensen, Ø., Strømstad, M. et al. Vulnerability to memory decline in aging revealed by a mega-analysis of structural brain change. Nat Commun 16, 11488 (2025). https://doi.org/10.1038/s41467-025-66354-y

 

 

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。