やるべきことは分かっている。
終われば報酬があり、意味も理解している。
それでも、どうしても始められない。
「やる気が出ない」「腰が重い」。
私たちはこの感覚を、意志の弱さや気分の問題として処理しがちです。
しかし研究者たちは、そこに素朴な疑問を置きました。
本当に止まっているのは、価値の判断なのか。
それとも、行動を立ち上げる別の仕組みなのか。
これまで行動は、報酬とコストを統合した価値によって説明されてきました。
価値が高ければ動き、低ければ動かない。
しかしこの考え方では、報酬の魅力を理解していても始められない場面を説明しきれません。
精神疾患で知られる無為(アボリション)はその代表例ですが、同じ現象は健常な日常にも見られます。
研究者が注目したのは、「何を選ぶか」ではなく、「そもそも始めるか」という、行動の最初の関門でした。
この問いを確かめるため、研究はニホンザルを対象に行われました。
人と似た基底核回路をもつ霊長類で、選択と動機づけを分けて観察するためです。
サルは画面上の課題に取り組み、報酬だけが得られる条件と、報酬に弱い不快刺激が伴う条件を経験します。
各試行は、画面中央を一定時間見続けることで始まりますが、視線を保てなければ試行自体が成立しません。
研究者は、この「始められなかった失敗」を、行動開始の指標として追いました。
不快刺激を伴う条件では、試行開始の失敗が増え、行動全体が鈍くなりました。
ただし、サルが報酬の価値を見失っていたわけではありません。
どちらを選ぶかという判断の傾向は大きく変わらず、報酬の意味は理解されていました。
止まっていたのは、価値評価ではなく、開始の段階でした。
そこで研究者は、腹側線条体から腹側淡蒼球へ向かう特定の神経経路に注目し、その働きを薬で一時的に弱めました。
すると、不快刺激を伴う条件で増えていた開始失敗が減り、試行が再び始まるようになりました。
一方、報酬だけの条件では、同じ操作をしてもほとんど変化は起きませんでした。
この経路は、嫌な要素があるときにだけ、行動開始にブレーキをかけていたことになります。
さらに、開始失敗は直前の失敗に強く影響されていました。
一度始められなかった経験があると、次の試行でも腰が重くなる。
報酬量や不快刺激の強さよりも、「うまく始められなかった」という記憶が、行動を縛っていたのです。
これは、価値計算とは別の層で、行動の勢いが調整されていることを示しています。
この研究が描き出したのは、行動には少なくとも二つの機能があるという姿です。
「やる価値があるか」を判断する機能と、「今、体を動かして始めるか」を制御する機能。
嫌な条件下では、前者が保たれていても、後者だけが抑えられることがあります。
比喩を一つだけ許すなら、それは価値を否定する拒否ではなく、開始をためらわせるブレーキです。
もちろん、対象や条件には限界があります。
それでも、「やる気が出ない」という感覚を、単なる心の弱さに還元しない視点が示されました。
重い腰は、価値を見失った証拠ではない。
条件に応じて作動する行動開始の制御が、私たちの中で働いている。
そのことを知るだけで、あの一歩の重さは、少し違った輪郭を帯びて見えてきます。
参考文献:
Oh JN, Amemori S, Inoue KI, Kimura K, Takada M, Amemori KI. Motivation under aversive conditions is regulated by a striatopallidal pathway in primates. Curr Biol. Published online January 9, 2026. doi:10.1016/j.cub.2025.12.035

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
