ある日、外来で診察を終えたご高齢の患者さんが、ふと笑ってこう言いました。
「先生、やっぱり人と話す時間が一番うれしいね。」
その一言が、胸の奥にやさしく残りました。
この方はしばらく前から膝を悪くしていて、ほとんど外出ができず、私のクリニックに月に1回受診するのが、唯一の「人との関わり」なんだそうです。
医師として、その言葉は、健康の本当の意味を改めて問い直す、気づきを与えてくれるものでした。
アメリカの研究チームが、2021年から2024年にかけて全国のクリニックで約38万8000人の高齢者に「あなたにとって一番大切なことは何ですか?」と尋ねました。
その答えのほぼ半分(48.6%)が「社会的な活動やつながり」でした。
続いて「健康」(21.0%)、「自立」(17.0%)、「家族との時間」(10.5%)が挙がり、とくにパンデミックが落ち着くにつれて「人とのつながり」を選ぶ人は38.6%から54.9%へと増えていました。
健康よりも、人との関わりや心のつながりこそが“生きる軸”になっているのです。
研究を主導したニコラス・シルツ氏らは、「4Msフレームワーク」(What Matters=何が大切か、Medication=薬、Mentation=心の働き、Mobility=動作機能)という考えを実際の診療に取り入れました。
その目的は、単に疾患を治療するのではなく、「その人が何のために健康でありたいのか」を理解することにあります。
この研究を解説したイェール大学のメアリー・ティネッティ医師は、「この一つの質問は、患者を知るための小さな一歩になる」と語ります。
確かに「何が大切か」を尋ねることは、診療の効率化とは対極にありますが、患者の人生観に寄り添う医療の原点でもあります。
ティネッティ医師は、患者の価値観を理解して治療を組み立てることで、不要な検査や過剰な医療を減らし、患者が本当に望む生活を取り戻せると述べています。
たとえ20〜50分かかっても、その対話の時間は未来への投資といえるかも知れません。
思い返せば、あの患者さんの笑顔もその延長線上にあります。
医療の目的は、数値を整えることではなく、「その人が自分らしく生きる力」を支えること。
診察室の短い会話の中にこそ、人の心を照らす医療の本質が潜んでいるのかもしれません。
参考文献:
Tinetti ME, Hashmi A, Ng H, et al. Patient Priorities-Aligned Care for Older Adults With Multiple Conditions: A Nonrandomized Controlled Trial. JAMA Netw Open. 2024;7(1):e2352666. Published 2024 Jan 2. doi:10.1001/jamanetworkopen.2023.52666

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
