「そこ、耳の後ろ、少し血が出てるよ」
そう言われて、はじめて触れてみる。
自分ではまったく気づいていなかったのに、指先にわずかな湿り気が残る。
痛みは、そのあとから追いついてくる。
異変は、自覚よりも先に、どこかで検知されている。
体は、外界と内側を隔てる境界の上に成り立っています。
皮膚や粘膜が破れれば、体液は外へとさらされ、内部の環境は揺らぎます。
しかし、その破れを、体内のどこが最初に察知しているのか。
とくに、傷の近くの血管が数秒のうちに拡張し、血液成分をにじませる仕組みは、十分には説明されていませんでした。
本研究は、傷の瞬間に生じる「浸透圧の変化」に注目しました。
透明なゼブラフィッシュの幼生に蛍光デキストランを注入し、血管の挙動を可視化します。
尾びれを切除したのち、体液と同じ濃度の溶液から淡水へ切り替える。
外から水が流入し、組織に浸透圧差が生じます。
血管径と蛍光分子の漏出量を約1時間追跡し、さらに特定の酵素や免疫細胞を欠損させた個体でも同様に観察しました。
淡水へ戻した直後、血管からの漏出は急速に増えます。
浸透圧差を生じさせなければ、この変化は大きく抑えられます。
アラキドン酸代謝に関わる酵素Alox5aやLta4hを欠損させると漏出は約半分に減少しました。
同様の抑制は、マクロファージを除去した場合にも認められます。
一方、好中球を除去しても初期反応は保たれます。
血管が直接傷を感じているのではなく、血管のそばにいるマクロファージが仲介していることが浮かび上がります。
では、そのマクロファージは、どこで異変を感じているのでしょうか。
浸透圧の変化は、組織内を毎秒およそ50マイクロメートルで伝わります。
その物理的な揺らぎが、血管周囲にいるマクロファージの核膜を一過性に引き伸ばします。
核膜に張力がかかると、cPla2という酵素がそこへ集まり、アラキドン酸を放出します。
そこから生成される脂質メディエーターが、血管透過性を高める合図になります。
内皮細胞の核は同じ距離にあっても同様の応答を示しませんでした。
応答しているのは、血管の近くにいるマクロファージの核です。
核といえば、遺伝情報を収めた場所と教わります。
DNAを守り、転写を制御する中心部。
しかし、この研究が描き出す核は、それだけではありません。
核は、形の変化を読む構造でもある。
膜が引き伸ばされるという物理的な歪みを、脂質シグナルへと変換する装置。
遺伝子の倉庫である前に、力を受け取り、翻訳する存在です。
境界が破れたとき、最初に揺らぐのは細胞外液だけではありません。
核膜もまた、わずかに変形する。
その変形が、血管へと伝わる化学的な波を生む。
炎症の始まりは、痛みでも赤みでもなく、核の機械的な応答にあるのかもしれません。
もちろん、この観察は魚の幼生での結果です。
哺乳類にどこまで共有されているかは、まだわかりません。
ただ、物理的な伸展と炎症が結びつく現象は他の組織でも知られています。
核が形を感じ取るという性質は、より広い生物学的原理の一部である可能性があります。
耳の後ろの小さな傷に、自分では気づけなかったあの瞬間。
体の内部でも、どこかが先に揺らぎを読んでいる。
核は、沈黙しているわけではない。
形が変わるたびに、外界の出来事を翻訳している。
生きているということは、境界を守ることだけではなく、その境界の歪みを、核が感じ続けているということなのかもしれません。
参考文献:
Gelashvili, Z., Shen, Z., Ma, Y. et al. Zebrafish macrophages convert physical wound signals into rapid vascular permeabilization. Nat Commun (2026). https://doi.org/10.1038/s41467-026-68520-2

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。