夕暮れ時にバイパスを走っていると、太陽が水平線に沈む瞬間に出会うことがあります。
その一瞬、その空間に溶け込みそうになりながら、「自分はこの壮大な自然のほんの一部なのだ」と感じます。
この感覚こそが「畏敬の念」と呼ばれるものですし、自分を超えた存在、つまり大自然との結びつきを生むものです。
今回紹介する研究は、この畏敬の念が社会的な結束をどう強めるのかを探ったものです。
従来、畏敬の念は自然や芸術に触れたときの個人的な感動として語られることが多くありました。
しかし、この研究では「アイデンティティ・フュージョン(自己と集団の境界が曖昧になり、強く一体化する現象)」に注目し、畏敬の念が人と人を結びつける仕組みを実証的に調べました。
研究はアメリカとオーストラリアの参加者を対象に、5つの調査と実験(総数1,124名)で行われました。
その結果、次のような知見が得られています。
* 畏敬の念を感じやすい人ほど、自国への一体感が強く表れた。
* 畏敬の念によって「自分は小さな存在だが大きなものの一部である」と感じ、その結果として集団と共に強くなれる前向きな結びつきが生まれた。
興味深いのは、文化による違いも見られた点です。
アメリカの参加者は畏敬の念が暴力的な行動も辞さないほどの強い集団防衛意識につながる傾向がありましたが、オーストラリアの参加者では非暴力的な協力行動に結びつきやすい傾向が示されました。
ちなみに、日本文化ではどうでしょう。
私なりの推測では、自然との一体感を重んじる「風流」の感性から、畏敬の念は国や集団よりもまず自然に向かう傾向があるように思います。
その延長として、協調的な行動につながりやすい気がします。
この研究が示す核心は、畏敬の念が「自分を消す」のではなく、「自分と集団を一つに重ねる」ことで、新たな力を生み出すということです。
ちょうど一本の糸が布に織り込まれると、弱々しく見えた糸も強い布の一部になるように、私たちもまた大きな存在の中で力を得るということなのでしょう。
もちろん、この研究にも限界があります。
対象は欧米の若い参加者が中心であり、他の文化圏で同じ効果が見られるかはまだ不明です。
また、畏敬の念が常にポジティブな結束に働くとは限らず、特定の集団への過剰な同一化は排他的な行動を招く危険もあります。
それでも、日常の中で畏敬の念を抱く体験は、私たちを孤独から救い出し、誰かと共にある感覚を取り戻させてくれるものです。
あの夕暮れの海のように、私たちを包み込む「大きなもの」に気づく瞬間が、人と人を結ぶ見えない糸を紡いでいるのかもしれません。
参考文献:
Song JY, Klein JW, Cha YJ, et al. From vastness to unity: Awe strengthens identity fusion. Emotion. Published online September 22, 2025. doi:10.1037/emo0001589

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
