夜道で背後に感じる視線や、繰り返し届く脅迫めいた連絡。
こうした体験は一瞬の恐怖にとどまらず、心身の奥深くに刻み込まれていきます。
これまで身体的な暴力や性的虐待が心血管疾患のリスクを高めることは知られていましたが、ストーカー行為のように直接的な接触を伴わない暴力については、あまり注目されてきませんでした。
今回紹介する研究は、この空白を埋める重要な成果です。
用いられたのは「Nurses’ Health Study II」という大規模な追跡調査のデータ。
6万6千人以上の女性看護師を対象に、2001年時点で心疾患の既往がない人々を選び、20年間にわたって心筋梗塞や脳卒中といった心血管疾患の発症を追跡しました。
個人の記憶に頼るのではなく、長期的な観察によって得られた信頼性の高い結論が導かれています。
調査の結果は、心と体の結びつきを明確に示しました。
7,721人(11.7%)がストーキング被害を経験しており、彼女たちは被害のない女性に比べて心血管疾患を発症するリスクが41%高いことが明らかになりました。
また、3,686人(5.6%)が接近禁止命令を取得しており、その場合のリスクは経験のない女性より70%も高いという結果でした。
さらに両方を経験した女性では、リスクが2倍以上に跳ね上がっていたのです。
この関連は喫煙や食生活、高血圧や糖尿病といった従来の危険因子を考慮しても揺るぎませんでした。
軟弱地盤に家を建てれば、土台は少しずつ削られていく。
恐怖や不安という微細な振動も同じで、年月をかけて心臓や血管を確実に蝕んでいくのです。
あるいは、砂時計の砂が少しずつ積もり重なっていくように、目に見えないストレスが体をむしばんでいく。
その姿をこの研究は浮き彫りにしました。
心理的ストレスという「見えない傷」が、時間をかけて物理的な病へとつながる可能性を突きつけています。
ただし、調査には制約もあります。
自己申告に基づく部分が多いこと、対象が主に白人女性だったことなどから、必ずしもすべての人に当てはまるわけではありません。
それでも、ストーキングという「接触のない暴力」が命に関わる病気のリスクを高める事実は、軽んじることができません。
健康診断の問診票を思い出してください。
喫煙や飲酒については詳しく尋ねられますが、これまでに受けた心の傷について問われることはまずありません。
今回の研究は、暴力の経験を生活習慣病リスクと同じように重く受け止める必要があると示しています。
診療の現場でその背景に光を当てることが、将来、誰かの心臓を守る一助になるのかもしれません。
参考文献:
Lawn RB, Murchland AR, Thurston RC, et al. Experiences of Stalking and Obtaining a Restraining Order Are Associated With Onset of Cardiovascular Events in Women: A Prospective Analysis in the Nurses’ Health Study II. Circulation. 2025;152(9):570-581. doi:10.1161/CIRCULATIONAHA.124.073592

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
