『終わった人』のその先に ― 退職と健康をめぐる男女の違い

『終わった人』のその先に ― 退職と健康をめぐる男女の違い

 

定年退職した男が、生きがいを失い「終わった人」になってしまう。

原作は内館牧子さんの同名小説で、舘ひろしさんが主演した2018年公開の映画『終わった人』では、そんな悲哀がコミカルに描かれていました。

実際、会社を辞めると急に老け込む、そんな話をよく耳にしますし、定年後に寂しさを抱えて過ごす男性像は長らく定番のイメージとして受け止められてきました。

けれども、世界35か国で10万人以上を追跡した研究は、こうした先入観を覆してしまうものでした。

とりわけ女性にとって、退職はむしろ心身に良い影響をもたらす可能性が示されました。

 

この研究の特徴は、分析の仕方にあります。

単に退職者と現役労働者を比べるだけでは、「健康が損なわれたから退職した」のか「退職したから健康が損なわれた」のかが分からず、堂々巡りに陥ってしまいます。

そこで研究者たちは、各国の年金支給開始年齢を一つの節目として活用しました。

これにより、個人の健康状態に左右されにくい形で退職の影響を切り出そうと試みたのです。

 

研究は、世界35か国で50〜70歳の約10万人を対象に行われ、平均で6.7年にわたり追跡されました。

その結果は単純に片づけられるものではありませんでした。

 

まず、退職は自己評価による健康感を高める効果が男女ともに確認されました。

具体的に言えば、健康状態を0.144単位分上向きに感じる程度の改善です。

小さな差ですが、積み重なると確かな違いになります。

そして男女で比べると、女性は0.193単位分と、男性のほぼ2倍に近い改善を示しました。

 

さらに女性では、退職後に記憶力テストの得点がわずかに上がり、日常生活を自立して営む力も3.8%ポイント高まりました。

加えて、身体を動かさない生活は4.3%ポイント減り、喫煙習慣も1.9%ポイント下がりました。

時間のゆとりを得た女性たちは、体を動かし、タバコとも距離を置くようになったのです。

一方、男性ではこうした行動の変化は見られず、健康感の改善にとどまりました。

 

国や教育水準、職種の違いによる影響はほとんどなく、世界各国でおおむね共通する傾向が浮かび上がりました。

退職は万国共通で「小さな解放感」と「余裕」をもたらすものの、その活かし方には性別による違いがある、と言えるでしょう。

 

つまるところ、退職は必ずしも心身の衰えを意味するわけではないようです。

むしろ、特に女性にとっては、心身を健やかに保つための新たなスタート地点となり得るのかもしれません。

翻って男性陣はどうでしょうか。

映画の主人公は必死に『終わった人』になるまいと足掻きましたが、多くの男性はその入り口で立ち尽くしてしまうだけかも知れません。

女性が新たな趣味や社交にいそしむ傍らで、男性はソファの上で、望まない『終わり』を体現してしまう。

年金制度の変更でリタイアの時期がどんどん後ろ倒しになっていますが、人生の転機がもたらす効能にも、どうやら性差があるようです。

 

参考文献:

Sato K, Noguchi H. Heterogeneous associations of retirement with health and behaviors: A longitudinal study in 35 countries. Am J Epidemiol. Published online June 13, 2025. doi:10.1093/aje/kwaf126

 

 

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。