「私たちの脳はブドウ糖だけをエネルギー源とする。」
これは教科書にある常識です。
しかし、ニューヨークにあるワイル・コーネル医科大学の研究室で投げかけられた素朴な疑問が、この長年の定説に波紋を広げました。
「体の他の部分は脂肪をエネルギーにするのに、どうして脳はそうしないのだろう?」
この疑問は、科学における一種の「ドグマ(定説)」への挑戦でした。
その定説は1933年まで遡ります。
当時の研究では、脳組織は脂肪をエネルギーとして利用する様子を見せませんでした。
その後も、より高度な技術を用いた実験が繰り返されましたが、結果は同じでした。
さらに、エネルギーの貯蔵庫となる「脂肪滴」が、脳細胞の精密な画像からも見つからなかったことが、この定説を固める一因となりました。
しかし、ティモシー・ライアン博士の研究チームは、この「見えない」という事実にこそ、答えが隠されていると考えました。
例えば、筋肉は安静時に脂肪滴を蓄えていますが、運動後にはそれが消費されてなくなっています。
脳の脂肪滴も、常に活動しているために「見えなかった」だけではないかと考えたのです。
研究チームは、遺伝性の病気の研究に着目しました。
DDHD2という遺伝子の変異が、脳内に脂肪滴を異常に蓄積させることが知られていました。
彼らは、この遺伝子が作る酵素の働きを一時的にブロックする薬を使いました。
すると、わずか10時間で脳の神経細胞に脂肪滴が大量に現れたのです。
そして、この脂肪滴を蓄えた神経細胞は、ブドウ糖が全くない状態でも、問題なく活動を続けることができました。
マウスの実験で、神経細胞のつなぎ目であるシナプスが、脂肪滴を分解して得られる脂肪酸を、エネルギー生産工場であるミトコンドリアに送り込み、活動エネルギー(ATP)を生み出していることが確認されました。
この発見は、脳にブドウ糖が不足した際の巧妙なバックアップシステムが存在することを示しています。
加齢とともに、この予備燃料への依存度が高まっている可能性もあります。
そう考えると、認知症などの神経疾患の研究にも、新たな光が当たるでしょう。
科学の歴史は、こうした常識を疑うことから新しい扉が開かれてきました。
固定観念にとらわれず、新しい可能性を探り続けることが、脳研究の進歩につながっていくのですね。
参考文献:
Kumar, M., Wu, Y., Knapp, J. et al. Triglycerides are an important fuel reserve for synapse function in the brain. Nat Metab 7, 1392–1403 (2025). https://doi.org/10.1038/s42255-025-01321-x

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
