この季節ですから、熱中症が疑われたり、脱水症と診断される方が多くなっています。
案内された処置室のベッドに横たわると、まず腕に針を刺される。点滴です。
あの透明な袋の中身が何かなんて、患者さんはほとんど気にしていないかも知れませんね。
しかし医療の世界では、「生理食塩水」と「乳酸リンゲル液」という二大巨頭が、長年にわたって静かな覇権争いを繰り広げてきました。
生理食塩水は、その名の通り塩水に近い液体です。
一方、乳酸リンゲル液はナトリウムに乳酸などさまざまな成分が加えられ、血液により近いバランスで調整されています。
生理食塩水を大量に使うと、体内のバランスが崩れ、酸性に傾く可能性があるという懸念が以前から指摘されていました。
しかし乳酸リンゲル液も一部の患者さんでは、成分中の乳酸が代謝できず、かえって体調を崩す可能性があることが知られています。
つまり、どちらも一長一短の要素があり、果たしてどちらが点滴としてふさわしいのか、決着がつかないままだったのです。
この論争に終止符を打つべく、カナダのオンタリオ州で壮大な社会実験が行われました。
7つの病院が協力し、病院全体で使う点滴液を一定期間ごとに交替するという大胆な研究を行ったのです。
12週間は乳酸リンゲル液を、次の12週間は生理食塩水を主に使用し、合計43,626人の患者さんを対象に、退院後90日以内に死亡、または再入院する割合に差が出るのかを調べました。
その結果、乳酸リンゲル液を使用した患者さんでは20.3%、生理食塩水を使用した患者さんでは21.4%が90日以内に死亡または再入院しました。
数字だけを見ると乳酸リンゲル液がやや良さそうに見えますが、統計学的には「誤差の範囲」と判断され、どちらを使用しても明確な差はなかったのです。
病院滞在期間や透析開始率などの他の指標でも、大きな違いは認められませんでした。
この研究はCOVID-19の影響で規模が縮小されたため、小さな差を捉えきれなかった可能性もあります。
しかし一方で、「明らかな差がない」という結果も重要な意味を持ちます。
新しい方法を取り入れることには手間やコストがかかりますから、現状を大きく変える理由がなければ、無理に移行する必要はありません。
つまり、どちらを使用している施設も、今まで通りでよし、となったのです。
点滴ひとつとっても、医療現場の選択は意外に奥深いものです。
劇的な結果がなくとも、こうした着実な検証を積み重ねることが、安全で安心できる医療への確かな一歩となるのだと思います。
参考文献:
McIntyre L, Fergusson D, McArdle T, et al. A Crossover Trial of Hospital-Wide Lactated Ringer’s Solution versus Normal Saline. N Engl J Med. Published online June 12, 2025. doi:10.1056/NEJMoa2416761

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
