このブログでは、村上春樹さんの『走ることについて語るときに僕の語ること』をたびたび引用してきました。
マラソンはとても活動的で、外の世界と触れ合うスポーツです。
しかし、その魅力を深く探ろうとすると、自分自身の内側との対話にいきつく気がします。
昨年のマラソンシーズンには、そんな不思議な魅力を肌で感じながら、自分の身体や心の反応をひとつひとつ確かめるように走りました。
走っている最中は、多くのことを考えたり、逆に頭がすっと空っぽになる瞬間が訪れたりします。
痛みや達成感を超えて、静かな場所にたどり着いたような気分になることもありました。
その経験は走るたびに微妙に異なります。
ところが最近の研究によると、マラソンを走っている間、私たちの脳もまた静かな変化を遂げているようなのです。
スペインで行われた研究によると、マラソン完走後のランナーの脳では、「ミエリン」という物質が一時的に大きく減少することが確認されました。
ミエリンとは、神経細胞の軸索を電線の被覆材のように覆い、信号をなめらかに伝える役割を果たしています。
運動や感情、感覚を司る脳の特定の部位で、このミエリンの減少が特に顕著だったそうです。
研究者たちはMRIを駆使して、ランナーの脳をマラソンの前後、さらに2か月後まで丁寧に追跡しました。
その結果、マラソン直後には最大で28%ものミエリン減少が見られました。
しかしこの変化は不思議と永続的ではなく、約2か月後には元の状態に回復していました。
では、なぜそんな現象が起きるのでしょうか。
研究者の説明によれば、脳が激しい運動によってエネルギー不足に陥った際、ミエリンの中の脂質をエネルギー源として一時的に利用している可能性があるそうです。
脳にとっては「非常食」のような位置づけなのかもしれません。
興味深いのは、この研究が脳の柔軟性をあらためて示していることです。
私たちの脳は、環境や運動量の変化に応じて、自らの構造を柔軟に調整する力を持っているようです。
とはいえ、これらの変化が積み重なったとき、長い目で見た脳や心身への影響がどうなるのかについては、まだまだ解き明かされていない部分が多くあります。
マラソンを終えた後に訪れる、あの静かで深い疲労感は、もしかすると脳が自らを回復させるための穏やかな時間なのかもしれません。
次に走るときには、自分自身の心と体、そして脳の状態をじっくりと観察してみたいと思いました。
参考文献:
Ramos-Cabrer P, Cabrera-Zubizarreta A, Padro D, Matute-González M, Rodríguez-Antigüedad A, Matute C. Reversible reduction in brain myelin content upon marathon running. Nat Metab. 2025;7(4):697-703. doi:10.1038/s42255-025-01244-7

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
