見終えたはずの標本が、もう一度口を開くとき―ゲーテの琥珀に閉じ込められていたのは、アリではなく私たちの注意だった

見終えたはずの標本が、もう一度口を開くとき―ゲーテの琥珀に閉じ込められていたのは、アリではなく私たちの注意だった

 

ドイツ中部の町ワイマールにある旧邸宅。

その廊下の一角に、長いあいだ動かされることのなかった木製のキャビネットがあります。

引き出しには、石や鉱物、植物片が詰め込まれ、数えれば一万八千点を超える自然物が収められていました。

展示のためではなく、整理のためでもない。

集め、並べ、考え続けるために置かれていた痕跡です。

 

そのキャビネットの主は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテでした。

詩人や劇作家として知られる一方、石の割れ方や植物の形の変化に、同じ密度の関心を注いだ人物です。

彼の収集は、完成した分類を誇示するためではなく、形が移ろう過程を見失わないための作業でした。

その一角に、樹脂が固まった琥珀が置かれていました。

 

琥珀は長く、化石というより燃える性質を持つ物質として扱われてきました。

美しく、透けるが、生物学の対象としては語り尽くされたものだと考えられていたのです。

実際、その中に閉じ込められた昆虫の多くは、すでに名前があり、分類も済んでいました。

だからこそ、見直す理由が乏しいと感じられていたのかもしれません。

 

この研究が向き合ったのは、その「見直す理由のなさ」でした。

現代の観察技術を用い、ゲーテの琥珀をあらためて調べたとき、内部に残されていた一匹のアリが対象になりました。

約四千万年前、温暖な針葉樹林で生きていたと考えられる働きアリです。

珍しい種ではありません。

むしろ、バルト琥珀では比較的よく見つかる種類でした。

 

方法は、シンクロトロン放射を用いたマイクロCTです。

非常に細かなX線で内部を三次元的に可視化し、樹脂を削らずに構造を読み取ります。

数値や条件は最小限に抑えられましたが、得られた像は決定的でした。

外骨格の形だけでなく、体の内側にある支えの構造まで確認できたのです。

化石アリではこれまで十分に捉えられてこなかった領域でした。

 

観察から、このアリが木の上で生活し、大きな集団を作っていた可能性が浮かび上がりました。

現生の近縁種と比べると、樹上での行動に適した特徴がいくつも重なります。

琥珀の中では目立たない存在だったこのアリは、当時の森では生態系の中核を担っていたと考えられます。

多く見つかるという事実は、重要でないことを意味しなかったのです。

 

ところが、ここで見え方が変わります。

長く見過ごされてきた理由は、保存状態の悪さでも、技術の不足でもありませんでした。

最も頻繁に見つかる種類だったために、すでに理解した気になり、それ以上丁寧に見られなかったのです。

その思い込みが、標本を沈黙させていました。

語らなかったのはアリではなく、注意を向けなくなっていた私たちの側でした。

 

この研究には制約があります。

確認できたのは一個体であり、当時の生態をすべて再現できるわけではありません。

それでも、古い収蔵品が新しい問いを生み出しうることは示されました。

博物館の棚は、過去の答えを並べた場所ではなく、見切られた問いが残っている場所でもあります。

 

ゲーテは自然を、固定された完成形ではなく、変化の連なりとして捉えました。

その視点に立てば、琥珀もまた過去に閉じた物体ではありません。

時間が固まった物質の中に、私たちの見方次第で立ち上がる現在が含まれています。

見慣れているという理由だけで、もう見終えたと判断してしまったもの。

その中に、まだ応答していない問いが残っている可能性は、決して小さくありません。

 

参考文献:

Boudinot, B.E., Bock, B.L., Tröger, D. et al. Discovery of Goethe’s amber ant: its phylogenetic and evolutionary implications. Sci Rep 16, 2880 (2026). https://doi.org/10.1038/s41598-026-36004-4

 

 

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。