「精子は、ただ遺伝子を運ぶだけの存在だ。」
私たちは長いあいだ、そう理解してきました。父親の体調や食生活が、子どもの将来に影響する―そんな話は、どこか眉に唾をつけて聞くものだったはずです。
しかし、もし「たった6週間の食事」が、精子の中身を書き換えてしまうとしたら、どうでしょうか。
近年、精子の中にはDNAとは別に、小さなRNAと呼ばれる分子が含まれていることがわかってきました。
これは遺伝子そのものではありません。
いわば、遺伝子の読み方に貼られた「メモ」や「付箋」のような存在で、どの遺伝子が、どの程度働くかを調整しています。
今回の研究では、健康な男性が6週間にわたり、食事中の脂質の質を変えました。
オリーブオイルを中心とした脂質、オメガ3脂肪酸、ビタミンDを取り入れるという、ごく現実的な介入です。
その前後で調べられたのは、精子の数や運動率ではありませんでした。
精子の中に含まれる、この「RNAのメモ書き」だったのです。
派手な結果は示されませんでしたが、無視できるものでもありませんでした。
精子全体の構成が大きく変わったわけではありません。
それでも、特定のRNAだけが確かに変化していました。
しかもそれらは、脂肪の使われ方やエネルギー代謝に関わる遺伝子と結びつく可能性をもつものでした。
ここで重要なのは「時間」です。
精子が完成するまでには、およそ2〜3か月かかります。
6週間という期間は、その途中にすぎません。
それでも体の脂質環境が変わると、精子の中の“制御情報”が反応しました。
これは、「精子は完成品だから外からの影響を受けにくい」という常識を、裏切るものです。
もちろん、この研究だけで「父親の食事が子どもの運命を決める」と言うことはできません。
対象人数は多くなく、検証はまだ途中段階です。
ただし、ひとつだけ、臨床に立つ人間として見過ごせない点があります。
診察室では、検査の数値が「基準内かどうか」で話が終わることが少なくありません。
ところがこの研究は、数値が正常でも、その内側の情報は違っているかもしれないと示しています。
異常がないから安心、という説明が、どこか粗く感じられてくるのです。
父親の体は、思っているより未来に近いと言えます。
精子は、単なる運び屋ではありませんでした。
日々の食事、脂質の質、体の状態――そうした現在の積み重ねが、次の世代に向けた「読み取り指示」として、そっと書き込まれている可能性があります。
妊娠や出産は、母親の体だけの出来事ではありません。
その前段階で、父親の体もまた、何も言わずに準備を進めています。
この研究は、その事実を、結論としてではなく、説明のしかたが変わるものとして突きつけてきます。
参考文献:
Vaz, C., Burton, M., Kermack, A.J. et al. Short-term diet intervention comprising of olive oil, vitamin D, and omega-3 fatty acids alters the small non-coding RNA (sncRNA) landscape of human sperm. Sci Rep 15, 7790 (2025). https://doi.org/10.1038/s41598-024-83653-4

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。