2020年のドキュメンタリー映画『Social Dilemma(日本語タイトル:監視資本主義 デジタル社会がもたらす光と影)』では、日常の何気ないクリックが、知らないうちに「自分はこういう人間だ」という確信へ形を変えていく様子が描かれます。
外側から与えられた情報が静かに自己像に入り込み、やがて本人の考え以上に強く作用していく物語です。
精神医学の領域でも、似た現象が起こっています。
うつ病や不安障害、そしてADHDの啓発が広がることで偏見が減り、救われる人がいる一方、「これは全部自分の症状では?」と感じ、健康な若者が“自己診断”へ向かう動きが加速していると報告されています。
こうした“思い込みが症状の感じ方を変える”構図は、医学では「ノセボ」という概念で説明されます。
ノセボとは、“悪いほうへ向かう期待や不安が、実際の症状を強めたり、生まれないはずの不調まで感じさせたりする現象”を指します。
薬の副作用を強く意識すると、体調の揺らぎまで副作用と感じてしまう─そんな例を思い浮かべると理解しやすいでしょう。
今回の研究では、このノセボの仕組みを短時間で学ぶことで、自己診断の暴走に歯止めがかかるのかを検証しました。
カナダの大学生215人が参加し、いずれも18〜25歳で精神疾患歴がなく、ADHDの可能性も低い、比較的健康な若者です。
参加者は三つの群に割り付けられました。
1)ADHD啓発のみ、2)ADHD啓発+ノセボ教育、3)睡眠の話を聞く対照群。
どのグループも30分ほどのワークショップ形式で、個別の相談や双方向の議論はありません。
ADHD啓発では、成人の有病率、典型例、見落とされやすい“隠れたサイン”の紹介と、当事者の体験談動画を視聴した後、「自分にも当てはまる点があるか」を書き出す作業が行われました。
一方ノセボ教育では、「ネガティブな期待が症状の感じ方を変える」仕組みを説明し、頭痛や疲労など(本来は別の理由で起こる)日常の揺らぎが“病気のサイン”として読み替えられる過程を示しました。
その後の書き出し作業では、「症状に別の説明がある可能性」を意識させる工夫が加えられています。
研究チームが測定したのは、「私はADHDだと思う」という一文への同意度(1〜5点)です。
ADHD啓発だけを受けた群では、中央値が1から3へ跳ね上がり、1週間後も高いまま保たれていました。
スコア3〜5をつけた人の割合は28%から58%へ上昇しています。
ここで注意点があります。
症状そのものは増えていません。
ASRSで評価した1週間分の症状は、どの群でも変化せず、症状の多さと自己診断の上昇にも関連はありませんでした。
自己診断だけが独り歩きしている構図です。
ノセボ教育が加わると様相が変わります。
直後の自己診断スコアの上昇はほぼ半分に抑えられ、1週間後には対照群とほとんど差がないところまで戻っていました。
映画の象徴的なモチーフ―“外から与えられた情報が、本人の自画像を塗り替える”―は、まさに本研究の核心と響き合います。
ADHD啓発が若者に与えるメッセージは、SNSのフィードが自己物語を形作るように、自分への理解の輪郭を大きく動かしうるのです。
ただし、ノセボ教育という小さな介入が入るだけで、その物語は過度に偏らずに済む。
これは、医学が扱う「期待」の力を、健康啓発にも応用できる可能性を示しています。
とはいえ限界もあります。
ワークショップ後に実際の受診や治療選択がどう変わったかは追えておらず、症状評価も1週間という短期間です。
またノセボ教育は複数の要素を同時に含むため、どの成分が最も効いたのかは不明です。
それでも、この研究は一つの明快な事実を示しています。
「情報の与え方をわずかに変えるだけで、若者の自己理解が数日後に違ってくる」。
これは、映画が問うた「情報の設計責任」に通じます。
精神医療の啓発もまた、設計の配慮が求められる段階に来ているのだと思います。
病名を伝えるとき、学校で啓発を行うとき、SNSで心の話題を扱うとき―少しの“揺らぎ”をすべて病気のサインと読まなくてよい、という視点を添えるだけで、若者の心に余白が生まれます。
その余白こそ、啓発が本来めざす「正しい自己理解」を支える最も大切な土台になるのだと感じます。
参考文献:
Sandra, Dasha & Segal, Zindel & Majoo, Sanaa & Sistanis, Anastasia & Burke, Matthew & Inzlicht, Michael. (2025). Inform and do no harm: Nocebo education reduces false self-diagnosis caused by mental health awareness. Psychological Medicine. 55. 10.1017/S0033291725101979.

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
