診察室で患者が話し始めても、医師の視線は必ずしも相手の表情に向かっていないことがあります。
カルテへ入力する文字列が遅れないようにと、モニターに釘づけになってしまうことがあるからです。
距離は近いのに、視線だけが交わらない。
そのわずかなずれが、診察室の空気に薄い膜をかけてしまいます。
患者さんも、そして医師である私たちも、その微かな居心地の悪さに気づきながら、それを“診療の一部”として、あるいは“仕方ない沈黙”として受け入れてきました。
電子カルテが医療の現場に広がって二十年、この少し寂しい風景は、いつのまにか病院の当たり前になってしまっています。
電子カルテは診療の質を支える大切な仕組みでありながら、その便利さの影で医師の時間や注意力が少しずつ“入力作業”へ傾いていったことも否めません。
情報の整理や共有を助ける一方で、画面へ向かう時間が日に日に増えていく─そんな変化が日々の診療の中で積み重なってきました。
診察が終わると、モニターの前で再び仕事が始まり、日が暮れるころには背中が重くなる。
今回紹介する研究は、この負荷を少しでも和らげるために、診察中の会話から自動で記録を作成するAI書記が、どこまで役割を担えるかを調べたものです。
患者と向き合う時間の質に、どんな変化が訪れるのかを丁寧に追っています。
研究には、アメリカの大学病院で外来診療を行う238人の医師が参加しました。
AI書記を使う群と、通常どおり自分でカルテを入力する対照群に分かれ、2か月間の診療を記録しました。
AI書記は診察中の音声を聞き取り、病歴や診察内容を文章に整えて提示します。
医師はその文章を必要な範囲で手直しし、電子カルテに反映させます。
評価されたのは、1件の診療録に要した時間、業務負荷の指標、職場環境の満足度、そして仕事の疲れを示すスコアでした。
対照群での診療録作成時間は平均で4分4秒でした。
一方、AI書記の一つであるNablaを使う群では3分49秒へと短くなり、対照群より9.5%の短縮が認められています。
もう一つのAI書記であるDAXは対照群との差がわずかで、時間効率の面では明確な違いが見えませんでした。
心理指標では、AI書記を使った医師の職場環境スコアが平均2.76点上昇し、業務負荷は35.8点低下、疲労を示す指標も0.27ポイント下がっていました。
数字だけ見れば小さくても、診察の合間の呼吸がふっと整うような、そんな手応えを思わせる結果です。
AI書記のもたらした変化は、劇的な効率改善ではありません。
むしろ、患者の語りに耳を向ける余裕が、すこし戻ってくるという種類のものです。
画面と人のあいだに置かれた薄い壁に、ひとすじの隙間ができる。
そのわずかな空間が、診察を受ける側にとっても、診る側にとっても、穏やかな息づかいを取り戻す役割を果たしているように見えます。
AIに“書くこと”を委ねられたとき、人間同士が向け合う視線がゆっくり深まる。
この小さな変化が、技術の価値そのものを形づくっています。
ただし、この研究には注意点もあります。
単一施設で短期間のデータにとどまり、AI書記の運用が十分にこなれていない可能性があること。
効果のばらつきも大きく、医師ごとの診療スタイルや患者層によって違いが出る余地があります。
また、記録時間の測定がAI書記アプリ内の編集時間を完全に反映していない可能性もあります。
今後は、多様な診療現場での検証が求められます。
それでも、診察室で本来交わるはずだった視線が、少しだけ近づく瞬間があります。
技術がその距離をどう埋めるのか。
AIが診療のすべてを決める時代ではなく、医師と患者の関係に寄り添う役割をどこまで担えるのか。
診察室の空気が変わっていく過程は、これからも静かに続いていくのだと思います。
参考文献:
Lukac PJ, Turner W, Vangala S, et al. A Randomized-Clinical Trial of Two Ambient Artificial Intelligence Scribes: Measuring Documentation Efficiency and Physician Burnout. Preprint. medRxiv. 2025;2025.07.10.25331333. Published 2025 Jul 11. doi:10.1101/2025.07.10.25331333

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
