ロンドンの歩道を、青年の肩に乗った茶トラが見下ろす。
映画『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』のあの場面では、鳴き声よりも、首の傾け方やしっぽの動きが、青年の表情を変えていきます。
言葉を持たないはずの猫が、確かな意図を伝えているように見えます。
この“無音の会話”を、家庭の玄関先で追いかけた研究があります。
対象となったのは、トルコで暮らす31匹の猫とその飼い主です。
猫は8か月以上で、少なくとも半年は同じ人と暮らしていました。
研究者たちは、帰宅の瞬間から100秒だけを切り出し、胸元に固定したスマートフォンで猫の行動を撮影してもらいました。
解析に使われたのは、しっぽの角度、接近回数、こすりつけ、身震い、鳴き声など22項目です。
行動を整理すると、まず「親和行動のまとまり」が浮かびます。
しっぽを立てて近づき、身体をこすりつける動きがそろって増えるグループです。
猫が“身体ごと相手に寄せていく”ときに生じるパターンです。
一方で、あくび、自分をなめる、身震いなどが集まる「置換行動のまとまり」も見えます。
これは、興奮や戸惑いをなだめるための“自分を整える動き”と考えられています。
興味深いのは、食器に向かう行動がどちらにも属さなかった点で、帰宅直後の猫がまず向けているのは“ごはん”ではなく“人”だという可能性が高まります。
ここで特に際立ったのが「鳴き声」です。
多くの行動が互いに連動するのに対し、鳴き声だけは独立したチャンネルとして扱われました。
そして明確な差が出ています。
猫は“男性の飼い主”に対してだけ、鳴き声を増やしていました。
他の条件(猫の性別、年齢、単独飼育かどうか)を調整しても傾向は保たれ、女性より平均2回ほど多く鳴いていたのです。
なぜ男性に向かって声を増やすのか。理由は断言できませんが、著者らは文化的背景に着目しています。
トルコでは、一般に女性のほうが日常会話の頻度が高く、猫との言語的なやりとりも豊富とされています。
対して男性は応答が少ない傾向があり、猫が“気づいてもらうために声を強めに使っている”可能性が考えられます。
青年とボブの関係を思い返すと、この構図が妙に腑に落ちます。
限界もあります。
サンプルは31家庭と小規模で、文化的背景がそろっているため、多様な地域に一般化するには慎重さが必要です。
また、飼い主がどれほど長く家を空けていたか、猫の空腹度など、あいさつ行動に影響しうる条件は完全には統一できていません。
それでも、玄関先の100秒を掘り下げたことで、猫のコミュニケーションが“身体の会話”と“音の会話”という二層構造で成り立っている姿が鮮明になります。
肩に乗ったボブが、ときに短い声で、またときにわずかな体重移動で青年を導いていたように、私たちの家の猫も、日々の帰宅の瞬間に多彩なサインを投げかけています。
鍵を回し、ドアを押し開ける。
その一瞬の後ろに、猫がどれほど多くの情報を積み上げているのか。
帰宅のたびに交わされるその小さな会話は、言葉よりも速く、確かに私たちへ届いています。
参考文献:
Demirbaş, Y. S., Kerman, K., Atılgan, D., Ünler, M., Yildirim, T., & Şimşek, S. (2025). Greeting vocalizations in domestic cats are more frequent with male caregivers. Ethology. Advance online publication. https://doi.org/10.1111/eth.70033

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
