映画『ファーザー』(2020年)の序盤には、不穏な静けさがあります。
さっきまでそこにあった椅子がわずかに動いていたり、娘だと思っていた人物の顔が別人のように入れ替わったり、時間の継ぎ目がどこか噛み合わない。
観客は「何かの事件なのか」と身構えますが、やがてそれが主人公の認知機能の低下によって生じた“世界のゆがみ”であることがわかります。
不可解だった映像が、一人の人生が老いの中で少しずつほどけていく姿へと変わるとき、日常の輪郭を保つことの切実さが胸に残ります。
その切実さは、私たちが「どう生き、どう老いていくか」を考えるときの入口にもなっていきます。
認知症のリスクは生活習慣の影響を受けると考えられています。
高血圧や糖代謝異常と共に、運動不足は主要な危険因子として位置づけられてきました。
ただ「若いころ」「中年期」「老年期」のどこが最も重要なのかははっきりしていませんでした。
フラミンガム研究は、成人初期・中年期・老年期の三つに分け、各時期の活動量が後年の認知症にどのように関わるのかを精密に比較した点が特徴です。
対象はフラミンガム心臓研究の子ども世代で、開始時点で認知症のない人たちです。
身体活動は、睡眠、座位、軽い運動、中等度から強い運動に費やす時間を合算した「身体活動指数」で評価され、年代ごとに五つの層に分類されました。
最も活動量の少ない層を基準に、後年の発症リスクが統計的に比較されています。
追跡期間は年代により15〜37年と長く、アルツハイマー型を含む全認知症が評価対象となりました。
発症率の高かった基準層に対し、中年期では、よく動く層ほど認知症の割合が大きく減っていました。
中年期の上位層では、おおよそ40%のリスク低減に相当する差がみられました。
とくに中等度から強い運動を続けている層では、基準層で二桁に届く発症が、一桁台へと大きく縮み、中年期の身体活動が「後年の脳」にまで届いている構造が見て取れます。
老年期でも同じ方向の傾きが確認され、最も活動量の多い層では危険度が明確に下がっていました。
散歩や買い物、家事などの積み重ねが、そのまま“生活のなかの神経保護”として働いている印象です。
一方、成人初期では差が小さく、この年代の運動量は本研究の範囲では明瞭な関連を示しませんでした。
アルツハイマー型に絞っても、流れは同じでした。
中年期で特に効果が強かった背景には、血圧・血糖・脂質異常を整え、脳血管のダメージを抑える作用があります。
さらに、中等度以上の運動は神経栄養因子を増やし、海馬のネットワーク維持を支えます。
老年期では、強度よりも「どれだけ日々動いているか」という総量が重要で、軽い活動の積み重ねが脳の安定に寄与していました。
人生後半では、質から量へと比重が移る構造です。
もちろん限界もあります。
参加者の多くがヨーロッパ系であり、他地域にそのまま適用はできません。
身体活動は自己申告で一度きりの評価で、生涯の運動パターンを完全に捉えてはいません。
成人初期の層では発症者が少なく、統計的な検出力が不足していた可能性も残ります。
それでも、この研究が示す姿は揺らぎません。
『ファーザー』で主人公の世界が静かに変形していくあの感触の裏側には、「自分を保つ」という人間の深い願いがあります。
中年期の少し息が上がる運動と、老年期の生活に溶け込んだ動きの総量。
その二つは、老いの中で自分の時間を守り抜くための、確かな土台になっていきます。
参考文献:
Marino FR, Lyu C, Li Y, Liu T, Au R, Hwang PH. Physical Activity Over the Adult Life Course and Risk of Dementia in the Framingham Heart Study. JAMA Netw Open. 2025;8(11):e2544439. doi:10.1001/jamanetworkopen.2025.44439

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
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