ヨーロッパコマドリは、秋になると数千キロメートルを南へ飛びます。
地図も標識もありません。
ただ、まっすぐ目的地へ向かいます。
人間が同じことをやろうとすれば、GPSと気象データと詳細な地図が必要になります。
鳥にはそのどれもありません。
あるのは羽と脂肪、そして方角を知る感覚だけです。
この感覚は長いあいだ、地球の磁場を利用した「地磁気コンパス」だと考えられてきました。ここまでは、多くの研究で確かめられています。
問題は、その先にあります。
地球の磁場は、あまりにも弱いのです。
強さはおよそ0.5ガウス。
分子が熱運動で持っているエネルギーと比べると、ほとんど無視できるほど小さい値です。
普通に考えれば、この程度の磁場が生体の化学反応を変えるとは思えません。
それでも鳥は迷いません。
どこかで、この弱すぎる磁場を読み取る仕組みが働いているはずです。
その場所がどこなのか。
研究者たちは長いあいだ答えを見つけられませんでした。
かつて有力だったのは、体内に小さな磁石があるという説です。
磁鉄鉱の粒子が磁場に反応し、方向を感じ取るという考え方でした。
しかしこの説明には困った点がありました。
鳥の方向感覚は、光の色によって変わるのです。
青や緑の光では進路を保てるのに、赤い光の下では方向を失うことがあります。
磁石が働いているなら、光の色が影響する理由が説明できません。
そこで研究者たちは、別の場所に目を向けました。
目そのものです。
鍵になるのは「ラジカル対反応」と呼ばれる化学過程です。
光を受けた分子が電子を別の分子へ渡すと、電子を一つずつ持つ二つの分子が生まれます。
この二つはラジカル対と呼ばれ、電子のスピン状態が互いに結びついたまま変化します。
磁場は、この電子の状態変化をわずかに変えることができます。
研究では、この反応を数理モデルとして計算し、磁場の影響を調べました。
ラジカル対は「一重項」と「三重項」という二つの状態のあいだを行き来します。
どちらの状態で反応が終わるかによって生成される分子の割合が変わります。
計算によると、地球と同程度の磁場でもこの割合が変化します。
ある条件では、磁場がない場合に約0.56だった三重項生成割合が、0.5ガウスの磁場で約0.74まで増える例が示されています。
また、分子の向きが磁場に対して変わると、この割合が大きく変化することも分かりました。
この反応が、もし網膜の中で起きているとしたらどうなるでしょうか。
視細胞では、光を受け取る分子が膜の中で一定方向に並んでいます。
もしラジカル対を生む分子も同じように並んでいれば、磁場の向きによって反応の割合が場所ごとに変わります。
すると視覚の感度が、視野の中でわずかに変わります。
研究者たちは、この仮定を使って鳥の視覚をモデル化しました。
すると奇妙な像が現れます。
鳥が磁場の方向を向いたとき、視界の中央に円形の濃淡パターンが生じます。
頭の向きを変えると、その模様がゆっくり視野の中を動きます。
磁場の向きが変わると、模様の形も変わります。
つまり鳥は、磁場を直接感じているのではない可能性があります。
磁場を見ている。
視覚の中に現れる、ごく淡い模様の変化を手がかりに、方角を知っているのかもしれません。
この仮説は、鳥の行動実験ともよく合います。
鳥の磁気コンパスは南北そのものを区別するのではなく、磁力線の傾きを利用しています。
また青や緑の光では方向を保てるのに、赤い光では方向感覚が乱れるという結果も知られています。
ラジカル対反応は光によって始まるため、この現象とも整合します。
もちろん、この仕組みが実際に鳥の体で働いているかどうかはまだ確定していません。
候補として注目されているのが「クリプトクロム」という光受容タンパク質です。
この分子は青色光を吸収し、電子移動を伴う反応を起こします。
もしその過程でラジカル対が生まれるなら、磁場の影響を受ける条件が整います。
ここまで考えると、方向という感覚の意味が少し変わって見えてきます。
私たちは方角を空間の中にあるものとして考えます。
しかし鳥にとってそれは、視覚の中に現れるわずかな濃淡の差なのかもしれません。
地球を包む磁場は、私たちにはほとんど感じられません。
けれど分子の世界では、その弱い力でも電子の動きを変えることがあります。
その小さな変化が積み重なり、神経信号となり、進むべき方向として認識されるのです。
もしこの仮説が正しければ、渡り鳥が見ている空は、私たちが見ている空とは少し違います。
星の配置の上に、もう一つの模様が重なっています。
地図ではありません。
地球の磁場そのものが、視界に重なっているのかもしれません。
参考文献:
Ritz T, Adem S, Schulten K. A model for photoreceptor-based magnetoreception in birds. Biophys J. 2000;78(2):707-718. doi:10.1016/S0006-3495(00)76629-X

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。