サンジや冴羽獠のように、女性の涙の前で男性の勢いが急にほどける場面は、アニメや映画で何度も繰り返されてきました。
私たちはそれを、やさしさや騎士道精神の表れとして理解してきました。
あるいは、攻撃を控えるための演技だと見てきた人もいるでしょう。
けれど今回の研究が見たのは、その少し手前です。
涙の前で変わっていたのは、心の持ちようだったのか。
それとも、心が言葉になる前に、体の側で先に始まる反応だったのか。
科学の側も、涙には長く冷たい目を向けてきました。
ダーウィンは感情で流す涙を、目を守る働きの副産物と考えました。
ところが動物研究では、その見方が少しずつ崩れていきます。
げっ歯類では、涙が攻撃や性的接触を弱める化学信号として働く例が積み重なっていました。
人でも、女性の涙を男性が嗅ぐとテストステロンが下がることは知られていましたが、実際の攻撃行動まで変わるかは分かっていませんでした。
この研究は、その空白を埋めようとしました。
研究チームは、悲しい映像を見て涙を流した22〜25歳の女性6人から涙を集め、同じ女性の頬に生理食塩水を流した液を対照にしました。
男性参加者は2日連続で実験室を訪れ、涙か対照液のどちらかを鼻先で受けながら、相手から不当にお金を奪われる金銭ゲームに参加します。
自分の利益にはならないのに、相手の取り分だけを減らせる行動があり、その選びやすさを攻撃性の指標にしました。
別の実験では、涙が嗅覚受容体(鼻のセンサー役のたんぱく質)に反応するかを細胞で調べ、さらにMRIの中でも同じ課題を行いました。
大事なのは、参加者が涙と対照液のにおいの強さや快・不快を区別できなかったことです。
本人には、特別な刺激として感じられていませんでした。
それでも行動は変わりました。攻撃性の指標は対照液で1.67、涙で0.94となり、43.7%低くなりました。
細胞実験では、調べた62種類の受容体のうち4種類が涙に濃度依存的に反応しました。
涙は、気づかれないまま行動の手前に入り込んでいたわけです。
脳でも同じ方向の変化が見えました。
挑発を受けたとき、前部島皮質(体の内側の不快さをまとめる領域)と前頭前野(行動を調整する領域)の活動が、涙の条件で下がっていました。
しかも、この下がり方が大きい人ほど、攻撃行動も強く下がっていました。
さらに前部島皮質は、側頭極、扁桃体、梨状皮質(においの処理に関わる領域)とのつながりを強めていました。
涙は「かわいそうだ」と考えさせる情報としてだけではなく、攻撃が立ち上がる回路そのものに触れていた可能性があります。
もちろん、ここで大きく言い切るのは乱暴です。
対象は男性だけで、女性が同じように反応するかは分かっていません。
人には約350種類の嗅覚受容体があるのに、今回調べたのは62種類で、実際にどの分子が効いていたのかもまだ特定されていません。
MRIでは行動への影響が弱まりましたし、これをそのまま日常や介入に持ち込むこともできません。
ただ、近い距離で流れる涙が、人のふるまいに化学的な層を持っているという見方は残ります。
言葉をまだ持たない乳児の涙にまで話が及ぶのは、その延長線上です。
私たちは、涙の前で変わるのは気持ちだと考えてきました。
けれど今回の研究は、その少し手前にある反応を見せています。
本人には知覚できない化学シグナルが、攻撃の立ち上がりを弱めていた可能性があるのです。
泣いている人を前にしたとき、こちらの心が動くより先に、体はもう別の受け取り方を始めているのかもしれません。
参考文献:
Agron S, de March CA, Weissgross R, et al. A chemical signal in human female tears lowers aggression in males. PLoS Biol. 2023;21(12):e3002442. Published 2023 Dec 21. doi:10.1371/journal.pbio.3002442

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
