ダイソーマジック 「テレポーテーション」

 

ダイソーマジックを勝手に宣伝してしまうコーナーです(笑)。

 

今回は「テレポーテーション」

「初級クラス」の赤いボックスのマジックですが、実は侮れません。

 

3枚のカードがあります。

真ん中に「ハートのキング」を挟むのですが、おまじないをかけると、一瞬のうちに一番下にいったり、元の真ん中に戻ったりするという現象です。

 

原理を知ると、いろいろなことに応用ができるマジックです。

夏休みで家族で移動する時の時間つぶしに、子供たちに練習してもらうというのもありですね。

仕掛けは簡単ですが、うまく見せるにはコツがいるマジックです。

 

 

 

回光返照

 

「回光返照(えこうへんしょう)」は、以前に紹介した「直指人心」と同義とされる言葉です。

「直指人心(じきしじんしん)」は「他人の心、まわりの外の雑事を気にせず、自分の内なる心を素直に見つめ、自分の可能性を掘り起こすこと」

そして、「回光返照」とは、「外にばかり向いて求めようとする心を、自分の内に向けて、本来の自分の心を照らし出すこと」です。

 

 

道元禅師がこう述べています。

「須(すべか)らく言(げん)を尋ね語を遂(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし。」

 

 

他人の考えや話は、しょせん他人のものです。

自分が本当に大切にしたいものは常に自分の内側にある。それを照らし出してみようと言うことです。

 

それは、組織においてもそうなのだと思います。内側に光を当てて、確かめる時を持つのは大切なことです。

 

 

映画

 

日曜日は時間が空いたので、久しぶりに映画を観てきました。

夏休みの日曜日ということもあって、映画館はたくさんの人で賑わっていました。

 

重いテーマを避けたのと、娘のリクエストに応えたので、アニメの実写化の映画を選んだのですが、クスクス笑ったり、大笑いしたり、楽しかったです。

エンターテイメントに徹した映画は、観ていて笑顔になりますし、気持ちが弾みます。

選択した娘が、映画館を出る時に「面白かったでしょ?」と自慢げに胸をはっていました。

 

 

 

「かよわい花」

 

今日は、翻訳家であり詩人である、三好達治さんの詩を紹介します。

 

リズムがとても心地いい詩ですが、人の世の無常が心に沁みる詩です。

「時間を守って、帰る」というのは、生きとし生けるもの全てに共通した宿命です。

 

わかっていはいるけれど、人はよほど忘れっぽいのか、見ないふりをしているだけなのか、約束の時間があるのを忘れてしまって生活してしまっています。

明日が、今日と同じような顔をして同じように訪れてくることを漫然と思いながら、無為に過ごしてしまうことが多いです。

 

 

 かよわい花

        三好達治

 

かよわい花です

もろげな花です

はかない花の命です

朝さく花の朝がおは

昼にはしぼんでしまいます

昼さく花の昼がおは

夕方しぼんでしまいます

夕方にさく夕がおは

朝にはしぼんでしまいます

みんな短い命です

けれども時間を守ります

そうしてさっさと帰ります

どこかへ帰ってしまいます

 

 

「貝殻」

 

「おじいさんのランプ」や「ごん狐」などの名作童話の作者、新美南吉は29歳の若さでこの世を去っています。死因は当時の「死の病い」である結核でした。

 

新美南吉の作品はどれも温かく、やさしく包み込んでくれます。

いつか紹介したいと思いますが「こぞうさんの おきょう」などは、みんなが無邪気です。

邪気がないということが、こんなに優しい世界をつくるのかと思い知らされます。

 

私が特に好きな詩に、「貝殻」という詩があります。

「かなしいときは 貝殻鳴らそ。」というフレーズはどこかで耳にしたことがあるでしょうし、メロディーがついて童謡になっていそうですね。

 

 貝殻

           新美南吉

かなしいときは 貝殻鳴らそ。

二つ合わせて 息吹きをこめて。

静かに鳴らそ 貝がらを。

 

誰もその音を きかずとも、

風にかなしく 消ゆるとも、

せめてじぶんを あたためん。

 

静かに鳴らそ、貝がらを。

 

 

 

自恃(じじ)

 

「盲目の秋」という詩があります。中原中也の詩です。

以下に、その詩の一節を紹介しますね。(今は夏ですが、季節とは関係ない詩なので大丈夫です。)

 

 

盲目の秋

 

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、

そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、

そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

 

人には自恃(じじ)があればよい!

その余はすべてなるまゝだ…。

 

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、

ただそれだけが人の行いを罪としない。

 

平気で、陽気で、藁束のようにしんみりと、

朝霧を煮釜に填(つ)めて、跳び起きられればよい!

 

 

自恃(じじ)とは、「自分自身を信じ、たのみとすること」という意味です。

「恃み」は「たのみ」と読みます。

 

以前に紹介した夏目漱石の「私の個人主義」に通じるものがあります。

こちら → 「夏目漱石『私の個人主義』」

 

虚無の壁にぶちあたった人間が、現状を打破すべく「どうにでもなれ!」ともがく姿が目に浮かぶようです。

 

この詩の最初の4行が、その勢いのリズムそのまま、好きです。

 

 

 

嫌いなこと

 

「月と六ペンス」の作者、サマセット・モームの言葉だそうです。

― 毎日、自分の嫌いなことを2つずつ行うのは、魂のためにはよいことだ。 ―

 

今の世の中の風潮とは、少しかけ離れた価値観に立っているかも知れません。

どちらかと言うと、最近は「好きなことをやろう!」「弱点よりも強いところを伸ばそう!」「良い事を思って引き寄せよう!」という感じですから、あえて「嫌いなこと」をすすめるのは今風に流行らないことでしょう。

けれども、モームの名言として、今でもわりと多くの方がこの言葉を引用しています。

なぜでしょうか。

 

なんとなく、親が幼い子どもに嫌いな食事をすすめる言葉に似ていますね。

「これを食べると体に良いよ。」「頭が良くなるよ。」「視力が良くなるよ。」「骨が丈夫になるよ。」「背が伸びるよ。」

嫌いなものを食べる代わりに、何か得する見返りがあるという、いわば交渉のようなものです。

モームが「嫌いなことをやるのは魂のためによい」と言ったのは、きっとそれが魂の成長を促す栄養のようなものになると思っていたのでしょう。

 

面白いのは、嫌いなことを好きになりなさいとは一言も言っていないということですね。

親が子どもに嫌いな食べ物をすすめる時は、食べてくれたら、もしかしたら好きになってくれるかも知れないという期待が(少しは)あります。「食わず嫌い」を期待しているのですね。

けれども、モームは「嫌いなこと」は「嫌いなこと」として、そのままです。

 

嫌いなことは嫌いなままで良いから、それをありのままに受け入れて、それを淡々と行ってみなさい。

そういう行いは、気持ちが揺るがず、安定していて、微笑みを保つことができる。

 

モームの言葉を、私なりに勝手に解釈してみました。

 

 

 

休むこと

 

外来でも夏バテで体調がなんだかスッキリしないという方が多くなってきました。

以前にも書いたのかも知れませんが、「疲れている」と自覚した時は、どうか思い切って休むことも考えてみてください。

 

 

先日、「先生、疲れをとる薬ってないですか?」と言われました。

私はそういう時は「そういう薬はないですよ。休む以外にないです。」と答えます。

 

 

「Hさん。自分の働きぶりを客観的に見て、『疲れて当たり前だよね』って思うでしょう?」

「…思います。」

「そういう働き方をしていても、薬で疲れない心と身体を求めているってことだからね。それって怖いことじゃない?」

「でも、休めないんですよ。せめて休まずに働ければと思っているんです。」

「いきなり燃料切れで、パタンって倒れてしまいますよ。お願いだから、休んで。」

 

 

Hさんはそこでふと思い出したらしく、大声で笑い出しました。

「先生と去年もこの時期に同じことを話した気がする!」

私は、「疲労を感じさせずに不眠不休で働かせる薬があったら、それは危ない薬だ」と言ったらしく、それと「体が休んでって言うサインは聞き逃さないであげて」とも言ったのだと言いました。

「この時期はいつも忙しいから、そんなことを思って仕事しているんですね。」

 

 

気軽に休めないのはわかっています。けれども、体調が悪いなと思ったら、思い切って休むことも考えてみてください。

 

 

「病牀六尺」

 

正岡子規が病床において執筆した随筆集として知られる「病牀六尺」

死の2日前まで書き綴ったということですから、その凄絶さに言葉もありません。

1回目の随筆の書き出しがタイトルの説明にもなっています。

 

 

〇病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病寐が余には広過ぎるのである。僅

(わず)かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団(ふとん)の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。

(略)

 

 

特に心打たれるのが、六月二日の日付がついた文章です。

 

二十一

〇余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。

〇因(ちな)みに問ふ。狗子(くし)に仏性(ぶつしよう)有りや。曰(いわく)、苦。

 また問ふ。祖師(そし)西来の意は奈何(いかん)。曰、苦。

 また問ふ。………………………。曰、苦。

(六月二日)

 

 

どんな時でも、どんな局面であっても、平気で生きていること。

病に冒されつつも、その苦痛さえもありのままに、生き通すという凄まじいまでの境地。

それを悟りと呼ぶ彼の気迫が感じられます。

 

 

「病牀六尺」は青空文庫で読むことができます。

こちら → 「病牀六尺」

 

 

ゆっくり時間をかけて、読み返してみたくなりました。

 

 

琉大ミュージカル2017

 

昨日は琉大ミュージカル2017を観てきました。

「Catch Me If You Can」

 

公開リハーサルの時とは別人かと思うほど、若い人たちの成長ぶりには目を見張りました。

もちろん観客は「ミュージカル」を観に来ますし、「良かった」「感動した」という感想も演劇に対してのものですが、琉大ミュージカルの魅力は表も裏も含めた「プロセス」にあるのだと思いました。

演目の選定から渉外、準備、練習、宣伝、公演、すべてのプロセスのことです。

絵画や写真のように残るものではなく、舞台芸術であることも、演じる人も観る人も、その瞬間瞬間、プロセスを共有しています。

それを感じているからこそ、大きな舞台装置が現れると「おおっ」という大歓声と拍手が沸き起こるのでしょうし、キャストのセリフにのめり込み、笑ったり泣いたりするのでしょう。

 

偉そうなことは言えませんが、個人的にはアンサンブルキャストの皆さんの弾けぶりに感動していました。

若い人たちのエネルギーは素晴らしいです。