今日から旧盆、今日9月3日はウンケーですね。
旧盆中の休診のお知らせです。
ウークイ(9月5日(火))は終日休診になっていますので、よろしくお願いします。
なお、明日9月4日(月・ナカヌヒー)は通常通りの診療を行います。
9月6日(水)からは通常通りの診療に戻ります。
よろしくお願いいたします。
沖縄県浦添市にある内科、腎臓&透析クリニックの院長のおはなしです
今日から旧盆、今日9月3日はウンケーですね。
旧盆中の休診のお知らせです。
ウークイ(9月5日(火))は終日休診になっていますので、よろしくお願いします。
なお、明日9月4日(月・ナカヌヒー)は通常通りの診療を行います。
9月6日(水)からは通常通りの診療に戻ります。
よろしくお願いいたします。
忌野清志郎さんの、この曲に何度励まされたか知れません。
「家に帰って寝るだけ」というぐらいの歌詞は、まさしく「今、ここ」の境地なのだろうと思います。
あるいは「ついてない」と言いながら、自虐的に自分を笑う様子には、昭和チックなカッコよさがあります。
都合よく助けてくれるヒーローは来ないし、泣いたって何も変わっていないことに気づきます。
いい事ばかりではない。むしろ悪いことが続くのが世の常。
いろんなことがあるようだけど、いつもと同じように、それでも夜になったら寝床に向かう。
みんな、寂しいんだなって思います。そして忌野清志郎さんの愛情があふれ出ているのを感じます。
横尾忠則さんが、前に「風は神」とつぶやいていました。
おっしゃる通りで、日本には昔から「風神」「雷神」がいます。日本の神は八百万(やおよろず)ですものね。
思いつく単語に「◯◯神」をつけたとしても、立派な神として存在していそうです。
例えば、月神、海神、石神、水神、地神、天神…。
これらの日本の神々は、肉体的な特徴を持たない神です。同じ多神教でもヒンドゥー教とは違います。
人々は、そこに「神力」が宿っていると畏れます。目に見えなくても、そこに存在していると信じれば、立派な神になります。
だから「風」も立派な神です。
それどころか、こんな神もいるのですね。
平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄」の中で、こんな文があります。
「隣の大子(おほいご)がまつる神は(略)、指の先なる てづつ神、足の裏なる あるき神」
てづつ神(拙神)とは、指の先についた「不器用の神」のこと。
あるき神(歩行神)とは、人をそぞろ歩きに誘い出す神のこと、そぞろ神とも言うそうです。
一見、欠点に思えるようなものも「神」と呼ぶあたり、善悪の垣根を越えて「人の力ではどうしようもないもの」を神としていたのでしょう。
そう言えば、貧乏神がそうですね。疫病神もそうです。
自分の欠点を「神」と名付けて、客観視していくのも良いかも知れません。
例えば、「小動物が苦手なおくびょう神が出てきた」とか、「決めきれないウジウジ神が出ちゃってるなあ」とか。
自分を客観的に観察する、昔の人のユーモアですね。
渡辺和子さんが、その著書の中で次のような言葉を述べていました。
“自分らしく”ということの中には、特に努力せずとも、自分が生かせて生きられる時間もありますけれども、時には自分で必死になって自分を輝かせて、生かしていかないといけない時もあるのです。
「自分らしく」は「ありのまま」と同じく、最近よく耳にする言葉ですね。
「生かせて生きられる」自然体が“自分らしく”であれば、それほど幸せなことはないだろうと思いますが、多くの場合(少なくとも私にとっては)“自分らしく”生きようとすると、自分の今がどういう状態にあるのかを内観して細かく修正していく必要があります。
でなければ、つい「わがまま奔放で好きなように生きていること」が“自分らしい”ことだと勘違いしてしまいそうになるからです。
「必死になって自分を輝かせて、生かしていく」
そこにこそ“自分らしさ”があるのだというのは、深く共感しますし、心に響くものでした。
自分らしさを発揮するのには、必死さが必要な時もあるのだと思います。
昨日はジョン・ケージさんの「4分33秒」が初演された日として、いろいろなところで話題にあがっていましたね。
私はたまたま車の移動中のラジオで「その日」だったということを知ったのですが、この曲を初めて耳に(!)したのは、中学生の頃に聞いたタモリのラジオ番組でした。
Wikipediaには「4分33秒」の説明は、こんなふうにあります。
楽章を通して休止することを表すtacetが全楽章で指示されており、演奏者は舞台に出場してから楽章の区切りを示すこと以外は楽器とともに何もせずに過ごし、一定の時間が経過したら退場する。
3楽章から成り、用いる楽器の選択と各楽章の所要時間は演奏者の裁量に委ねられており重奏もオーケストラも可能で、合計所要時間をこの曲の曲名としている。
こんな曲があるんだと笑いながら、タモリはラジオで流そうとしたのですが、ラジオは無音状態が続くと放送事故(?)にあたるらしく、「流せないね~」と笑っていたのを覚えています。
この曲の意図が、しゃれています。
「無」を聴くより、演奏会場内外のさまざまな雑音、鳥の声、木々の揺れる音、会場のざわめきなどを聴くものとされている。
ラジオでは流せませんが、ネット上にはいくつかの動画が存在していました。
オーケストラ版。
ヘヴィメタル版の「4分33秒」
当のジョン・ケージさんのインタビュー動画がありました。
前衛音楽を作曲(!)した人としては、とても穏やかな優しそうな方ですね。
島根大学医学部附属病院腎臓内科の伊藤孝史先生が「腎と透析」という医学雑誌に寄稿した文章がとても魅力的でした。
この号は「サイコネフロロジーupdate」として特集されたものです。
そのタイトルは「笑い療法士の役割―笑いの力」でした。
「笑い療法士」とは一体何でしょうか?
「療法士」とついていますから、もちろんお笑い芸人とは違います。これは、「癒やしの環境研究会」が2005年から認定している資格だということです。
笑い療法士とは、1)笑いで自己治癒力を高めることをサポートする人、2)笑いで発病を予防する人のことで、現在、すでに全国で800人以上の方が資格を取得しているのだそうです。
そういう話だけでも、ワクワクしてきますね!
笑いの効用には主に次の4つがあります。本文から引用して紹介します。
1)親和作用:笑うことで親しみを覚え、和やかな雰囲気を作ることができます。
2)誘引作用:一人が笑うとその周りにいる人も笑ってしまいます。笑いは伝染するのです。
3)浄化作用:笑うとスカッとして、ストレスや悩みがその瞬間消えます。
4)解放作用:笑うことで気分がよくなり、頭を柔軟にしてくれます。気持ちを切り替えたりすることに重要です。
それから「癒やしの環境研究会」のホームページに、「笑い療法士の実践」という項目が挙がっていました。
こちら→ 「笑い療法士募集のご案内」
•日常的に笑いをひきだす
•心にしみる温かな笑い――安全・安心が基本
•笑いを感染させる力が強い
•特に場所を選ばなくてできる
•パフォーマンスは必ずしも必要ない
•特にグッズを必要としない
〈笑わせるのではなく、笑いをひきだす。それが笑い療法士です。〉
「笑い療法士」― とても興味が湧いてきました。
昨日、知人に教えてもらったのが「ある日の高校生の応援合戦の様子」です。
その方の高校生の息子がバスケット部で活躍しているのですが、以前にあった沖縄県大会のことがちょっとした話題になっているようなのです。
「こんなことがあったなんて、息子は一言も話してくれなかったんだけどね。」
近頃の高校生はすごいねと、スマホでそのYouTubeの動画を見せてくれました。
動画の説明には、こうあります。
前原高校とコザ高校、興南高校と豊見城高校の試合のとき、停電があって照明が落ちてしまったそうです。
その時に応援団の応援合戦がはじまり、会場がひとつになったのだと。
動画を見て、私も「すごい!すごいね!」と共感して、嬉しい気持ちになっていました。
まずはご覧ください。
別角度からの動画もアップされていました。
「ダイナミック琉球」は、沖縄では小学校の運動会や学芸会の団体演舞でよく使われていて、私の世代にも耳に馴染んだ曲です。
ただし、私にとっての「ダイナミック琉球」は、どうしても「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」を演じている彼らのイメージが強く、重なってしまいます。
沖縄県立中部病院に勤務していた頃、彼等の活躍にたくさんの感動をもらっていました。
今回、また高校生の「ダイナミック琉球」で感動しています。
この歌は、若い世代の「沖縄の好きな曲」の上位にあがる曲かも知れませんね。
横尾忠則さんがこんなことをつぶやいていました。
「ブッダは言う。愛猫、愛犬の存在価値は人間(飼い主)に対する布施であると。と同時に人間側も彼等に布施を行っているのだろう。」
横尾さんの愛猫タマの、死ぬ間際の様子をツイートしたものでしたが、とてもよく分かる気がします。
人間は自分の存在価値について哲学するものです。
猫や犬が自分の存在価値について哲学しているかどうかわかりませんが、相互に布施をし合っているのだという説明は腑に落ちました。
7つの布施とは次のものをいうらしいです。(Wikipediaより)
1 眼施:好ましい眼差しで見る。
2 和顔施(和顏悦色施):笑顔を見せること。
3 言辞施:粗暴でない、柔らかい言葉遣いをすること。
4 身施:立って迎えて礼拝する。身体奉仕。
5 心施:和と善の心で、深い供養を行うこと。相手に共振できる柔らかな心。
6 床座施:座る場所を譲ること
7 房舍施:家屋の中で自由に、行・来・座・臥を得させること。宿を提供すること。
愛猫、愛犬と飼い主の姿を思い浮かべながら読むと、容易に想像ができて、微笑ましい気持ちになります。
「両掌相打って音声あり、隻手に何の音声かある」
(両手を打てば音が響きます。それでは、片手ではどんな音がするでしょう。)
江戸時代中期の白隠禅師のあまりに有名な公案です。
いわゆる意味のある答えを導き出そうとしてもダメで、声なき声を全身で受け止めることが大切だと教えてくれます。
理屈にこだわっては、前に進まない。分別にこだわらずに、言葉を超えて聞き取ろうとする姿勢を持っていたい。
正解をすぐに求めない(ジャッジしない)ことは、日常の生活でも大切な指針となります。
スマホカメラのマクロレンズを手に入れて、毎日被写体を探して遊んでいます。
今回は花編。
(◯◯編って言っても、シリーズ化するほどの根気もないだろうと思うですが…(笑)。)
小さな花を大きく写すと、画面いっぱいに色彩が広がるので、世界が違って見えます。
全体像→マクロの順番に並べますね。
外で咲いている花を実際に撮影してみて気づいたのですが、花ってじっとしていないのですね。
風を受けると、全体がゆらゆらと動きます。花というのは先の方にあるので振動幅が大きいのです。
指で押さえつけたくなる衝動を抑えつつ、ベストショットを求めて何枚も撮っていました。
それでも、ピンぼけにしか撮れなかったのが下の写真です。
なかなか難しいものですね。