尿酸値を下げる薬と痛風発作

 

 

痛風発作で痛みに耐えながらクリニックを受診される方がいます。

 

血中の尿酸値が高くなり、それが長く続くことで

尿酸の結晶が関節に沈着することで起こります。

 

尿酸値を下げる薬がありますが

急激に下げると、痛風発作を起こしてしまうことがあるということは

常識として知られています。

 

尿酸値をゆっくり下げるように、少ない量から飲み始めるなどの工夫をしながら

薬の処方にも注意しています。

 

薬剤の添付文書にも基本注意事項に、以下のように記されています。

 

l  急性痛風発作がおさまるまで、本剤の投与を開始しないこと。

 

l  投与初期に尿酸の移動により、痛風発作の一時的な増強をみることがある。[血中尿酸値を測定しながら投与し、治療初期1 週間は1 日100mg投与が望ましい。]

 

 

その常識とされていたことに、改めて疑問を投げかけた方々がいました。

本当に、痛風発作がおさまるまで

アロプリノール(尿酸値を下げる代表的な薬です)を飲むことはいけないことなのかという疑問です。

 

 

Initiation of allopurinol at first medical contact for acute attacks of gout: a randomized clinical trial.

 

Am J Med. 2012;125:1126-34.

 

 

7日以内に痛風の急性発作を起こした57人の男性に参加してもらいました。

 

最初の10日間

 

アロプリノール、300 mg/日 ( 31人) 内服を開始するグループと

プラセボ (26人) 内服を開始するグループに分けました。

 

つまり、痛風発作にも関わらず、わざとすぐにアロプリノールを飲んでもらうということをしてもらったわけです。

 

プラセボというのは、今までの注意事項、つまり「発作がおさまるまでアロプリノールを飲まないでください」を守ってもらう飲み方を再現したわけです。

 

 

 

ただし、すべての患者に

 

インドメタシン(消炎鎮痛剤)を50 mg 1 日 3 回(10 日間)

コルヒチン(痛風発作の緩解および予防の薬)0.6 mg 1 日 2 回(90 日間)

 

内服をしてもらっています。

 

 

そして

11 日目から 30 日目まで、すべての患者に

アロプリノール300 mg/日 を飲んでもらいました。

 

結果は

意外なことに、両グループ間で痛風の急性発作や再発の程度に差が出なかったということでした。

 

 

興味深い調査報告だと思います。

 

ただし、差が出なかったというだけで

尿酸値を急激に下げても、発作が出なかったということではないですね。

 

この調査報告の結果を臨床の現場で役立てるとすれば

どこにあるのでしょうか。

 

人というのは、発作がおさまるまでの1週間後とか

待っている間に、もう痛風や高尿酸血症のことをすっかり忘れてしまって

処方されたアロプリノールまでも忘れてしまうことがあります。

(人間っていうのは痛みが過ぎたら、忘れてしまう動物ですから)

 

そういう人には

「痛風発作に差がないようですから、アロプリノールをはじめから飲んでもいいですよ。」

という根拠にはなるかも知れません。

 

 

 

「April Come Daddy Will (4月になれば父は)」

 

 

高校生になる長女が、幼稚園(保育園?)に通っている時に

私あてに手紙を書いてくれたことがありました。

10年以上も前のことです。

 

 

その手紙。

実は今でも大事にしている手紙です。

というのも、すごく神秘的で予言的な文面だったからです。

 

 

子どもだけがもつ能力を駆使して

(例えば、『となりのトトロ』のサツキとメイだけが「まっくろくろすけ」を見ることができたように)

私を励ましてくれていると思ったものでした。

 

 

ただその時、私がどんな状況だったのか

例えば、疲れていたとか精神的に参っていたとか

それさえも、今となっては思い出せないでいるのですが。

 

 

これが、その手紙です。

 

letter from little girl

 

「おとうさん

いつもおしごと

ありがとう。

4がつになったら

たのしいことが

いっぱいあるよ。」

 

 

最近、娘にこの手紙を見せたのですが

「え、なに?なぜ4月? お父さん、この時、何かあったの?」

全く覚えていないそうです。

 

 

小さな子どもが

サイモン&ガーファンクルの「4月になれば彼女は(April Come She Will)」を知っているわけがないし。

 

 

いつの4月なんでしょう?

4月になるたびに、密かに期待している自分がいます。

 

 

 

桜の木と「後ろのクリニック」

 

妻の友人たちから、開業の際に何か記念になるものをということで

 

桜の木をいただきました。

 

クリニック裏の「緑地帯」に植えています。

 

cherry 

 

「さくだ」に語感が似ているということが選んでくれた理由かと思いますが

 

寒緋桜の花言葉が

「あでやか」

「善行」

「心の美」

 

嬉しい記念品をいただいて喜んでいます。

 

 

来年の春になって、花が咲いたら

 

スタッフみんなでお花見をしようと楽しみにしています。

 

 

 

ところで、クリニックに開院当初から通院してくれているNさんが教えてくれました。

 

「団地のみんなは先生のところを 『 (団地の) 後ろのクリニックって呼んでるよ。」

 

「へえ。面白いねえ。Nさん、「前」 はどっちなの?」

 

「「前」 は南側さあ。「後ろ」 はこっち。」

 

なるほど。

 

「後ろのクリニック」で「さくだ内科クリニック」が通じてくれるのだったら

 

地域の皆さんに親しまれてきたということでしょうね。

 

世話好きのNさんは、何かとクリニックのことを気にかけてくれていて

 

話のついでに宣伝してくれたそうです(笑)。

 

 

 

「それでも人生にイエスと言う」

先日、東京で学会のついでに寄った本屋で

フランクルの著書の特集をしていました。

 

何が書いてあるかは、もちろん知っています。

それでも、衝動買いをしてしまいました。

 

 

「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル著

 

 

フランクルの言葉に触れていると勇気がもらえるからです。

 

 

例えば、27ページの文章

 

 

私たちが「生きる意味はあるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。

つまり、わたしたちは、生きる意味を問うてはならないのです。

人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。

私たちは問われている存在なのです。

私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない。

答えを出さなければならない存在なのです。

生きること自体、問われていることにほかなりません。

私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。

そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。

どのような未来もこわくはありません。

未来がないように思われても、こわくはありません。

もう現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。

すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。

その際、どんな未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。

 

 

この著作の中で、フランクルはひとつの格言を引用しています。

 

 

「もし私がそれをしなければ、だれがするだろうか。

 しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、

 私は何であろうか。

 そして、もし私が今しなければ、いつするのだろうか。」

 

 

人は唯一のものでありながら、何かに尽くさなければ無意味であるということ。

 

そして、「生きるとは、問われていること、答えること。」というコペルニクス的転換。

 

 

学会でめぐり合ったこの本に、なぜか引き寄せられたような気がします。

 

 

 

内科学会に参加しました

 

4月13日の夜に東京に入り、14日の朝から

 

第110回日本内科学会総会・講演会に参加してきました。

naikagakkai

楽しみにしていたのが、実践的生涯教育プログラムの中の

 

「内科医への認知症診療アドバイス」という企画で

 

事前参加予約が必要ということもあったのですが、参加できて良かったです。

 

非常に勉強になりました。

 

特に、内科医に求められているのは画像検査にいたる前の

 

問診や内科学的診察、神経学的診察だったりするわけですが

 

わかりやすく、まとめていただいたと思います。

 

 

特に、役者さんが演じる模擬患者を前に、専門医の診察手順を実際に見せてもらったのは

参考になりました。

 

診療の課題をまたひとつ、与えてもらった気がします。

 

naikagakkai2

 

 

リンゴ体型は腎臓にも悪い  文献から

 

 

肥満は、おおまかに2つのタイプに分けられるということはご存じでしょうか。

 

「内臓脂肪型肥満」と「皮下脂肪型肥満」です。

 

それぞれ、脂肪のつきかたで体型が違ってくるので

 

リンゴ型肥満(内臓脂肪型) と

 

apple

 

洋ナシ型肥満(皮下脂肪型)と呼ばれています。

 

peer

 

リンゴ型肥満は、お腹の皮膚が薄く、一見太って見えないという特徴があります。

 

本人も含め、肥満に気づきにくいことがあるのが厄介です。

 

内臓脂肪の蓄積は、動脈硬化などの合併症を多く引き起こすため「悪性肥満」に分類されています。

 

 

洋ナシ型肥満は、 下腹部やおしり、太ももの皮下に脂肪が蓄積するタイプです。

 

一度つくとなかなか減らせないのが特徴です。

 

 

 

ここまでは「肥満」のタイプのお話でした。

 

 

さて、今回紹介する文献は、肥満の有無とは関係なく

 

このリンゴ型の体型が

 

腎臓の循環に悪い影響を与えるものだということが示されたものです。

 

 

 

 

Central Body Fat Distribution Associates with Unfavorable Renal Hemodynamics Independent of Body Mass Index

Published online before print April 11, 2013, doi: 10.1681/ASN.2012050460 JASN April 11, 2013 ASN.2012050460

 

 

 

ここでは、リンゴ型なのか洋ナシ型なのかを判断するために

 

ウエスト・ヒップ比を調べています。

 

リンゴ型だとウエストとヒップの差がほとんどないか

 

あるいはウエストの方が大きい状態ということです。

 

 

 

315人の健常者で調査しました。

 

参加者の平均のBMIは24.9でした。

(定義上、肥満とは言えないような人たちです。)

 

性別、年齢、平均血圧およびBMIなどの影響を取り除いて分析した結果

 

ウエスト・ヒップ比が大きければ

 

有効腎血漿流量や糸球体濾過率を低下させていました。

 

 

言い換えれば、ウエストとヒップの比率を測定することで

 

その方の腎臓のはたらきが、ある程度推測されるかも知れないということです。

 

 

なにしろ、肥満の方々のことだけを言っているわけではないのですから。

 

「リンゴ型」に「かくれ肥満」が多いとされるゆえんですね。

 

 

内臓脂肪の蓄積というのは、メタボを含め、

 

やはり、諸悪の根源と言えそうです。

 

 

 

 

連日透析は透析者のメンタルヘルスを改善するか  文献から

 

 

透析者に限らず、慢性の病いを患っている方は

精神的に落ち込むことは多いものです。

 

 

その時の一般的なアプローチとして

抗うつ薬などに代表される薬物療法や

薬を使わない認知行動療法などは

効果のある治療法として期待されているものです。

 

これらメンタルヘルスに対して、最近、面白いアプローチの調査報告がありました。

 

 

「週6回の血液透析はメンタルヘルスに効果があるか?」

Effects of 6-Times-Weekly Versus 3-Times-Weekly Hemodialysis on Depressive Symptoms and Self-reported Mental Health: Frequent Hemodialysis Network (FHN) Trials

 

American Journal of Kidney Diseases, 2013-05-01, Volume 61, Issue 5, Pages 748-758

 

332人の透析者が調査に参加しました。

昼間に245人。施設透析での比較。

週3回の、いわゆる通常の透析に対して、週6回施行の透析。

つまり、週3回 vs 週6回 の、2つのグループに分けて比較しました。

 

 

gr1-A

 

 

うつ症状やメンタルヘルスに関して、質問票に答えてもらってスコア化して評価していくものです。

また、夜間(オーバーナイト)には、87人が参加しました。

 

 

gr1-B

 

 

 
結果です。

週6回の透析の方が(つまり、回数多く透析をした方が)

メンタルヘルスに関して良好だったという結果が出ました。

ただし、うつの症状に関しては有意な違いはなかったようです。

 

gr2-A

 

 

 
ここで、シンプルな疑問が生じてきます。

 

 

回数が多い透析において、メンタルヘルスが向上する理由は何なのでしょうか。

もっと重度のうつ傾向の人やメンタルヘルスが低下した人にも、同じ効果が得られるものなのでしょうか。

 

 

確かに、透析の回数を多くすることは、尿毒症物質、体液貯留、炎症性サイトカインなどの改善はみられると思います。

身体が調子良くなったことが、心に良い影響を与えたのでしょうか。

確かに、体や頭がすっきりしていると、さわやかな気持ちになりますものね。

 

 

あるいは施設透析に週に何回も通うことで、医療者と接する機会が多くなったことが

副次的な効果をもたらしたのでしょうか。

 

 

なぜ、このような結果が出たのかに考えをめぐらすことは

透析の可能性を広げるようで、非常に大切なヒントが隠されている気がします。

 

 

「扶氏医戒之略」 医師の心構え 緒方洪庵

 

緒方洪庵が尊敬したドイツ人医師のフーフェラント。

 

彼の説いた医者の倫理観に関する教えを意訳したものが「扶氏医戒乃略」です。

 

医師としての倫理観を考えるとき、時代背景を想像するに胸に迫るものがあります。

もちろん、時代が時代ですから、そのまま現代に通用するものではないでしょう。

倫理観や考え方の違いもあると思いますし、すべてが賛同できるものではないかも知れません。

 

けれども、「心構え」として、これを大切にしていた当時の医師たちの覚悟に感嘆するものです。

 

どこかに良い資料はないかと探していたら

 

ほかの人が書いたブログで良いものがありましたので紹介します。

 

もとのブログはこちらです。

読みやすいように改行を多くしました。

 

 

(こちらから引用)

 

扶氏医戒乃略 

緒方洪庵訳 Chrstoph Wilhelm Hufeland(1762-1836) 著

 

 

1.人のために生活して、自分のために生活しないことが医業の本当の姿である。

安楽に生活することを思わず、また名声や利益を顧みることなく、

ただ自分を捨てて人を救うことのみを願うべきであろう。

人の生命を保ち、疾病を回復させ、苦痛を和らげる以外の何ものでもない。

 

 

2.患者を診るときはただ患者を診るのであって、決して身分や金持、貧乏を診るのであってはならない。

貧しい患者の感涙と高価な金品とは比較できないだろう。

医師として深くこのことを考えるべきである。

 

 

3.治療を行うにあたっては、患者が対象であり、決して道具であってはならないし、

自己流にこだわることなく、また、患者を実験台にすることなく、常に謙虚に観察し、

かつ細心の注意をもって治療をおこなわねばならない。

 

 

4.医学を勉強することは当然であるが、自分の言行にも注意して、

患者に信頼されるようでなければならない。

時流におもね、詭弁や珍奇な説を唱えて、世間に名を売るような行いは、

医師として最も恥ずかしいことである。

 

 

5.毎日、夜は昼間に診た病態について考察し、詳細に記録することを日課とすべきである。

これらをまとめて一つの本を作れば、自分のみならず、病人にとっても大変有益となろう。

 

 

6.患者を大ざっぱな診察で数多く診るよりも、心をこめて、細密に診ることの方が大事である。

しかし、自尊心が強く、しばしば診察することを拒むようでは最悪な医者と言わざるをえない。

 

 

7.不治の病気であっても、その病苦を和らげ、その生命を保つようにすることは医師の務めである。

それを放置して、顧みないことは人道に反する。

たとえ救うことができなくても、患者を慰めることを仁術という。

片時たりともその生命を延ばすことに務め、決して死を言ってはならないし、

言葉遣い、行動によって悟らせないように気をつかうべきである。

 

 

8.医療費はできるだけ少なくすることに注意するべきである。

たとえ命を救いえても生活費に困るようでは、患者のためにならない。

特に貧しい人のためには、とくにこのことを考慮しなければならない。

 

 

9.世間のすべての人から好意をもってみられるよう心がける必要がある。

たとえ学術が優れ、言行も厳格であっても、衆人の信用を得なければ何にもならない。

ことに医者は、人の全生命をあずかり、個人の秘密さえも聞き、

また最も恥ずかしいことなどを聞かねばならないことがある。

したがって、医師たるものは篤実温厚を旨として多言せず、むしろ沈黙を守るようにしなければならない。

賭けごと、大酒、好色、利益に欲深いというようなことは言語道断である。

 

 

10.同業のものに対しては常に誉めるべきであり、たとえ、それができないようなときでも、

外交辞令に努めるべきである。

決して他の医師を批判してはならない。人の短所を言うのは聖人君子のすべきことではない。

他人の過ちをあげることは小人のすることであり、

一つの過ちをあげて批判することは自分自身の人格を損なうことになろう。

医術にはそれぞれの医師のやり方や、自分で得られた独特の方法もあろう。

みだりにこれらを批判することはよくない。

とくに経験の多い医師からは教示を受けるべきである。

前にかかった医師の医療について尋ねられたときは、

努めてその医療の良かったところを取り上げるべきである。

その治療法を続けるかどうかについては、現在症状がないときは辞退した方がよい。

 

 

11.治療について相談するときは、あまり多くの人としてはいけない。

多くても三人以内の方が良い。とくにその人選が重要である。

ひたすら患者の安全を第一として患者を無視して言い争うことはよくない。

 

 

12.患者が先の主治医をすてて受診を求めてきたときは、先の医師に話し、

了解を受けなければ診察してはいけない。

しかし、その患者の治療が誤っていることがわかれば、それを放置することも、

また医道に反することである。

とくに、危険な病状であれば迷ってはいけない。

 

 

馬場茂明著 「聴診器」より

 

(ここまで引用)

 

 

「100分 de 名著」

 

NHKテレビテキストの「100分de名著」シリーズが好きで

本屋で衝動買いをしてしまいます。

 

 

と言っても、テレビの方は時間が合わないので滅多に観ることはありません。

 

 

550円ほどで、名著のエッセンスを味わうことができますし

その本に関わる第一人者の先生の解説を読むことができます。

 

 

「名著」にとりかかるには、ありがたい、良い入り口です。


ニーチェ『ツァトゥストゥラ』も、そのうちの1冊です。

 

 

哲学者の西 研先生がわかりやすく解説してくれています。

 

(引用ここから)

「すべての『こうあった』を、『私がそう欲した』につくりかえること

 ―これこそわたしが救済と呼びたいものだ」

 

「しかたなしの受容」というのは、みんなわかると思うのですが

「これ〝が〟いい。私はこれを欲する」ということになると

多くの方が「それは無理ではないか」と感じるのではないでしょうか。

 

 

「しかたがない」という言い方は、たしかに受け入れてはいますが

「外から押しつけられた」感を伴っています。

ですから、「もしこれがなかったら」と考えてしまう可能性が残っている。

でも「このこと(障害)が私の生をつくっている」と思えたならば

それは自分の人生の内側を形づくっているものとして受け入れていることになります。

それはもう自分から切り離せる「外からの」ものではない。

苦しみも与えたが悦びをつくり出すきっかけにもなっている。

そう考えるならば、マイナスを含めて自分の人生を肯定できる。

そしてその人生を何度でも繰り返そうと思えるのかもしれません。

(引用ここまで)

 

解説にとどまらず、この著書をどう自分の生活に活かすか

そんな視点で踏み込んでくれているのが素晴らしいのです。

「ニヒリズム」や「ルサンチマン」などの言葉を理解しながら

それをそれだけで終わらせない面白さです。

 

試練は自分の願いが先にあって、生まれるものだということ。

 

 

言葉は理解しがたいかも知れませんが、それが実感できるとき

本当の自分の人生を生きることになるのかも知れません。