「的にあてることを考えるな、ただ弓を引き矢が離れるのを待って射あてるのだ。」
ドイツ人である著者が、日本の弓道に戸惑いながらも研鑽を積み、ついには日本の精神をも深く理解したというお話は、とても感心させられるものがあります。
日々研鑽を重ねる中に、こういう逸話があります。
ヘリゲルは、的を狙わずに中てるということが理解できないとして師範に訴えました。師範はヘリゲルのその悩みが単に不信によるものだと見抜きました。
「今夜、道場に来なさい」
夜中、暗闇に等しい道場で、師範は細長い1本の線香に火をともして、それを的の前の砂に立てました。線香のかすかな光は非常に小さく、なかなかそのありかがわからないほどです。
そして、的もまともに見えない暗がりの中で、師範は静かに2本の矢を射ました。
師範に促され、射られた2本の矢をあらためると、第一の矢はみごとに的の真ん中に立ち、第二の矢は第一の矢の筈にあたってそれを二つに割いていました。
的など見えるはずもない暗闇の中で、二度とも的の中央を違えず射抜いていたのです。
師範は言いました。
「1本目の矢が的の真ん中にあたったのは30年もこの道場で稽古をしているのであるから、さほど驚くことではないかも知れない。しかし、2本目の矢はどう見られるか。これは私から出たのでもなければ、私が中てたものでもない。それでもまだあなたは、狙わずには中てられぬと言い張られるか。」
「私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持ちになろうではありませんか。」
それ以来、ヘリゲルは疑うことも問うことも思いわずらうこともきっぱりとあきらめて、さらに稽古に精進したということでした。
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このエピソードを読んで、「昔の日本人なら、そういう神業の達人がいたかも知れない」と思ったり、あるいは、もしかしたらヘリゲルよりも強い疑念のまなざしで、このお話をとらえてしまうかも知れません。
実は、現代の私たちこそが、武道の神髄、日本の精神をまっすぐにとらえていないのかも知れないと思いました。
考えてみれば、弓道もそうですが、剣道、柔道、合気道など、究極は道を求めるものなのですね。
弓道の師範はさらにヘリゲルにこう説きました。
「弓道が技術ではないこと、理屈を超越したものであること、弓を引いている瞬間の我は、宇宙と一体をなすべきものであること。」
「一射一射が射手の全生命を投げ出したものでなければならないこと、すなわち一射絶命の境地に到達しなければならないこと。」
「射がすなわち禅的生活である。」
そういう生き方が、とても清々しいものとして伝わってきます。
そこに至った境地は、思い量ることもできませんが、私にも強い憧れがあります。
著者が師範に贈った「フーベルツスの聖鹿」の絵を下に載せました。
ヘリゲルは、日本の弓道の精神が、この絵に描かれる中世の神秘的な伝説に似ているのだと言っていたようです。