この本も中学時代に手にしました。
今はいい時代ですね。Kindle版や青空文庫で無料で読めるようです。
著者はこの時代に生きた哲学者、文学者と同様、孤独に対峙している雰囲気を感じました。
今なら中二病と言われても仕方がないような当時の佐久田少年は、理解しているのかしていないのか自分でもわからないままこの本を読み進めていました。
もちろん、わかっていなかったと思います。
哲学者独特の「である調」の言い切った表現に、背伸びをした気分に浸っていたのかも知れません。
そこにちょっとした毒気が含まれていたとなると、嬉々としたものです。
それを消化しきれないまま発信し、斜に構えて特別になった気分になっていました。
(ああ、我ながら思い出すと恥ずかしい。)
例えば、「幸福について」の章。
(改行を勝手に入れています。前述の通り、原著はKindle版や青空文庫でも読めますので、そこでお願いします。)
幸福は人格である。
ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。
しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。
彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。
この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。
幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。
歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。
幸福は表現的なものである。
鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。