何かの本か雑誌に「大きな木に抱きつく」のが、瞑想に似た効果があるという記事がありました。
木に密着して、自分の肌を通して木の温もりを感じ、木の気持ちを想像するのだそうです。
木に集中するのですから、私が思うにそれは一種のサマタ瞑想なのでしょう。
サマタ瞑想とは集中の瞑想とも言われています。何か対象となる1点に意識を集中する瞑想のことです。
対象物は様々です。揺れるロウソクの炎を使用することもありますし、紙や壁などに描いた点を見つめることもします。
有名な呼吸への気づきの瞑想(アーナパーナ・サティ)もサマタ瞑想ですね。
ところで、「大きな木に抱きつく」というのは、かなり魅力的ではあります。
自然のパワーを直接浴びるようなイメージがありますね。
けれども、です。
屋久杉の力を得た新モスラ(別名:グリーンモスラ、平成モスラシリーズの1作目)のような守護神の崇拝儀礼に似た感じがあるからでしょうか。いざやろうとすると、恥ずかしいです。
しかも、大人の男がやると酔っ払いかと思われそうです。悪くすると、不審者扱いされるかも知れません。
恥ずかしいと思いながらも、1回はやってみたくなるのが好奇心というものです。案外、気にするのは本人だけで、やってみたら誰も気にするものでもないかも知れません。
ということで、抱きつけるぐらいの大きな木を探してみました。大きな木は、都会だと公園ぐらいにしかありません。理想的なのは両腕でばっとへばりつく感じの大きさです。
おもろまちの新都心公園にちょうどいい感じのガジュマルがありました。ある日、夜のジョギングに出向いたランナーを装い、そうっと近づいていきました。
午後10時ぐらいになっても、公園には意外にジョギングやウォーキングをしている人がたくさんいます。かなり気になります。犯罪ではないのですが、まるで悪いことを画策している気分です。
意を決して、ガジュマルに抱きついてみました。狙いはガジュマルの心持ちを想像すること。瞑想に似た効果というものを確かめること。
ところが、やってみるまで想像もしなかったのですが、木は(特にガジュマルは)小さな枝や毛根らしきもの、葉っぱなどが木の表面を覆っていて、痛いのです。
集中するどころか、これは苦行にしかなりません。拒絶された感じです。
こんなこと、やってみなければわからない。得た結論は、ガジュマルは避けた方が無難だということ。
周りの人がどう思ったのかもわかりません。ランニングを装ってその場をさっさと走り去ってしまいましたから。
でも、子どもの頃、ガジュマルで木登りした時など、痛いなんて思わなかった気がするのですが…。
とにかく「大きな木に抱きつく」というのは想像以上に難しいことだと知りました。
