あきらめという言葉には、もともと「明らかに見る」という意味があるのだそうです。
「明らめる」という言葉を紹介されていたのは、サイコネフロロジー研究会設立者のひとり、春木繁一先生でした。
「あきらめ」と言うと少し悲観的なニュアンスが漂っているものですが、「肯定的なあきらめ」という意味合いで使っています。
アドラー心理学を世に知らしめた「嫌われる勇気」の中で、哲人が青年に説明した言葉にも、この「あきらめ」について言及している箇所があります。
「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めて、交換不能なものを受け入れること。変えられるものについては、変えていく勇気を持つこと。
例えば、「わたし」という容れ物を捨てることはできないし、交換することもできない。
大切なのは「与えられたものをどう使うか」ということで、「なにが与えられているか?」ではない。
仮にできないのなら、「できない自分」をありのままに受け入れて、前に進んでいくこと。できないことを、何も悲観する必要もない。
外来で百寿者の方とお話をしていると、「明らめる」ということを実践されているのだなと実感します。
「できない」ことを悲観せずに、少しでも楽に過ごすにはどうしたら良いのか?ということを楽しんでいるようです。
「先生、胸焼けがするときにはね。50ccほどの牛乳を飲んでみるんですよ。そしたら、楽になるんです。それでいいですか?」
「いいも何も、私がその歳になったらきっと参考になることばかりです。勉強させてもらっていますよ。また教えてください。」
「明らめる」というのは、境地のことを言っているんですね。
一朝一夕でどうにかなるものではないと思いますが、「明らめ」て、自己を受容していきたいものです。