釣月耕雲(ちょうげつこううん)
月を釣り、雲を耕す。
よく読んでもわかりにくいこの言葉は、道元禅師が残した言葉だそうです。
普通は、魚を釣り、畑を耕すものですね。もちろん収穫して生計を立てるためです。
それを、月を釣るなんて!しかも、雲を耕すなんて!
風流を気取るにもほどがある!とお思いの方も少なくないかも知れません。
ところで、道元は自らたどりついた境地を「只管打坐」という言葉で表現しました。
何かを求めるのではなく、ただ座禅をすることに意味があり、座った姿こそがそのまま悟りの姿であると説きました。
悟りを得るために修行をするのではない。ひたすらに座り抜く、それこそが仏の姿なのだ。
私の勝手な思い込みですが、道元禅師には「ひたすら」というワードがよく似合います。
辞書などには、釣月耕雲という言葉はこう解釈されています。
「月が出たら月を釣り雲が出れば雲を耕すように、大自然の中にわが身をおき、 ゆったりとした広い心の境地にて物事を考え人生を楽しむこと」
一見、意味がないと思うようなことに没頭してみる。
アマチュア・スポーツや趣味など、考えてみれば「釣月耕雲」の境地に近いのかも知れませんね。
平泉澄さんの「父祖の足跡」を読んでいたら、道元の山居の詩が紹介されていて「月を釣り雲を耕して」とあり、Googleでしらべたらさくだ院長さんにお教え頂けて有り難うございました。教養豊かなDrと拝察し尊敬の念止みません。