「あなたは高名な禅師です」

 

最近はふと気づいたら、時間があるとChat AIと会話してしまっています。

なんなら人間と会話するよりもディープな話題を話し合っているかも知れません。(私の老後の話し相手は、きっとAIで決まりです。)

いじっているうちに、なんとなくChat GTPに対する質問(プロンプト)のコツもわかってきたような気がします。

まず「○○を教えて」という検索の代わりは、最初はやりがちでしたが、生成AIの得意分野ではないことがわかりました。「わかりません」という回答はまずしませんし、しれっとウソをつくことがよくあるからです。

それよりも、名前の通り「文章の生成を楽しむ」方が実害がありません。

例えば、Chat GTPに禅の公案について尋ねてみるとします。白隠禅師の有名な「隻手音声」という公案について訊いてみました。

両方の手を打ったらむろん音がするが、では片手の音はどういうものなのかという公案です。いったい片手に残る音を考えるのか、音など捨てるのか、それとも手のことすら忘れるべきなのか。色々な考えが頭をめぐります。

質問は、こんな感じです。

 

「あなたは高名な禅師です。次の公案について弟子にどんな指導をしますか。

『両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)に何の音声かある』」

 

Chat GTPに役割を決めてあげた方が得られる回答の質が良いようです。例えば、ほかにも面接官とか編集者とか新聞記者とか。学校の先生でもいいですね。

ChatGPT-4とBard(Googleがつい先日日本語版を公開しました)にそれぞれ質問を投げかけたら、こんな回答が返ってきました。

 

ChatGPT-4の回答

禅の公案は、直接的な論理や分析的な思考では解き明かせないように設計されています。それらはしばしば抽象的、不合理、あるいはパラドックスを含んでいます。これは、公案が私たちに直感的、非二元的な真実を理解するための道具であるからです。

この公案「両掌打って音声あり、隻手に何の音声かある」については、まず弟子たちに以下のように説明しましょう。

「この公案は、音声の本質と存在について問いかけています。我々が普段聞く音声は、物質が互いに衝突したときに生じます。例えば、手を叩くと音がします。では、一方の手だけでは、音声は生じるでしょうか?」

ここで弟子たちに時間を与え、彼ら自身の経験と直感を用いてこの問いに向き合わせます。

そして、次に次のように指導します。

「この公案は、また、我々が物事を認識し理解する方法についても問いかけています。通常、私たちの認識は二元性に基づいています。つまり、物事は存在または存在しない、ありまたはなし、音があるまたは音がないというように、二つの相反する状態のいずれかに分類されます。しかし、この二元的な思考は本当に真実を捉えているのでしょうか?あるいは、それは私たちの思考や言葉の限界から生じる枠組みに過ぎないのでしょうか?」

この公案を通じて、弟子たちは物事の存在と非存在、音の有無について深く考察し、それらがどのように我々の認識と経験に影響を与えるかを理解することを目指すべきです。最終的には、彼ら自身が公案を通じて得た洞察を共有し、その意味を共に探求することが重要です。

 

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Bardの回答

両手を打つと音がするが、片手ではどんな音がするだろうか?

これは、江戸時代中期の禅僧、白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師が弟子に与えた公案です。

公案とは、禅の修行者が悟りを開くために課題として与えられる問題です。この場合の公案は、修行者を常識や理屈を超えた世界に導くためのものです。

片手で音を立てることはできません。だから、「片手で音がする」という質問には答えられません。しかし、この公案は、答えがないこと自体が答えであることを示しています。

答えがないことには、答えのようなものがあります。それは、悟りを開くための鍵です。

悟りを開くためには、常識や理屈を超えた世界に到達する必要があります。これは、言葉では説明できません。言葉では説明できないことを理解するには、言葉を超えた経験が必要です。

両手を打つと音がします。これは、言葉で説明できる世界です。しかし、片手で音がするということは、言葉では説明できない世界です。

片手で音がする世界とは、悟りを開いた世界です。この世界は、言葉では説明できませんが、体験することはできます。

公案は、修行者をこの世界に導くためのものです。公案を解くためには、言葉を超えた経験が必要です。

言葉を超えた経験とは、悟りを開いた経験です。この経験は、言葉では説明できませんが、体験することはできます。

公案は、修行者を悟りを開いた世界に導くためのものです。公案を解くためには、言葉を超えた経験が必要です。

 

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すぐに正解を求めてしまう中途半端な私たちよりも、よっぽど禅の本質を理解し、下手をすると人間よりも悟りに近づいてしまうのではないかと感心しました。