「愛語」とは「やさしい言葉をかける」という意味でよく耳にしますが、これは道元の「正法眼蔵」のなかの45巻「菩提薩捶四摂法」に出てくる言葉でもあります。
「菩提薩捶」(ぼだいさった)というのはボーディサットヴァの音を当てたもので「菩提」のことです。悟りを求める者という意味で使われます。
「四摂法」は悟りを得るために心得ておく4つの行いを示したものです。
一つには、布施(見返りを期待せず施しをする)。
二つには、愛語(やさしい言葉をかけること)。
三つには、利行(自分を忘れて人に尽くすこと)。
四つには、同事(他と同化しわけへだてをしないこと)。
愛語以外のほかの3つの行いについては、仏教のイメージそのものの固さを感じます。けれども、「愛語」も同列の扱いなのです。
「正法眼蔵」では「愛語」について、こう解説されています。(サイト:道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み より)
愛語とは、触れ合う人に対して、まず思いやりの心をもって、優しい言葉をかけることです。およそ乱暴な言葉を口にしないことです。
世の中には、相手の安否を尋ねる礼儀があり、仏道にも珍重(お体大切に)の言葉や、不審(ご機嫌宜しゅうございますか)という師を敬う挨拶があります。
このように、触れ合う人に対して、赤子を慈しむような思いをためて語ることが愛語です。
徳のある人に会えば褒めなさい。徳のない人に会えば哀れみの心を起こしなさい。愛語を好むことによって、次第に愛語を増していくのです。
そうすれば、日頃知られず見えなかった愛語も現れてくるのです。現在の身命のある間に好んで愛語しなさい。そして、未来永劫に退かないようにしなさい。
(略)
知ることです、愛語は愛の心から起こり、愛の心は慈悲心を種子としていることを。
このように、愛語には天を回らすほどの力があることを学びなさい。それはただ能力を褒めるだけのものではないのです。
現代はすぐに返答する言葉の瞬発力がもてはやされる気がします。
けれども、すぐに言葉を返す必要はないのかも知れませんね。落ち着いて自分の中に「愛語」を探し、それから言葉を発していくのが、より大切なのかも知れません。