「肉体を得た現実」

 

 

久しぶりに哲学に触れたくなって、ショーペンハウアーの「自殺について」を読んでみました。

ショーペンハウアーはきっとペット好きだったに違いないと想像できるほどに、この本は人間の本質について動物と対比して語られることが多いです。

「この世の悩みに関する説によせる補遺」にこんな箇所があります。少し長いのですが、私が納得させられた箇所でもあり、そのまま紹介しますね。 

 

人間の感情は、動物とはくらべられぬほど、なんと深刻に、劇烈に、動かされることか! しかも、その目的といえば、究極的には、ただ、同様の、健康とか栄養とか交接などの成果を得るにとどまるのだ。

このことは、おそらく、人間にあっては、すべてのことが、過去と未来とのつながりにおいて、考えられる─このことから心配とか恐怖とか希望などが初めてほんとうに生のなかに現われ、そのうえそれはやがて享楽や苦悩が現在的である動物にあってはただ現在にのみ限られている実在性が実際に示す力よりも人間に対してはずっと強く響いてくる─ことにより、遙かに強く印象づけられるのだ。

すなわち、動物には、反省─喜びと悩みとの凝縮装置─がないから、人間のように、回想と憧憬とによって、喜びと悩みとが蓄積されるようなことが、起るわけはない。

動物にあっては、苦悩は現在にとどまり、たとえ、苦悩が、何度も数を重ねて、後から後からとくりかえし起ったとしても、やはり、常に、ただ、最初の場合と同様に、苦悩は、現在にとどまっていて、重積するということはあり得ない。従って、動物たちには、心配などあるはずもなく、その感情は、いつも平静に保たれていて、まことに羨ましいわけだ。

ところが、人間の心情においては、反省と、これに従属するものを媒介として、前に述べたような─動物も人間と同様にもつ─享楽と苦悩との要素から、その幸不幸に対する感覚の昂進の度が、一目見たばかりで恍惚となり、しかも往々にしてそのまま死んでしまうほどの喜びとなったり、或いは、失望の結果、自殺へと導かれるにいたるまで、発達しているのである。

 

簡単に言ってしまえば「動物は人間よりも現実の世界に生きることだけに満足している」ということになるでしょうか。

「動物は肉体を得た現実である」という表現もしました。純粋な生命活動であるからこそ、巷のネット動画で流れる動物の映像は、時に人々に癒しを与えるのでしょう。

たまに動物の動きを精巧にコピーしたロボットの動画がありますが、それは癒しどころではなく気味が悪いものとして目に映ります。それは生命の純粋な活動に対する冒涜(?)に見えているからなのかも知れません。