「ほんとうに聞くこと」

 ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 モモ

 

先日からミヒャエル・エンデの「モモ」を読み返していますが、毎回新たな発見があって、すごく感動しながら読んでいます。

 

私は50代のおやじですが、「モモのようになりたい」と素直に憧れます。

 

長い引用で恐縮ですし、どこかの誰かにも怒られそうですが、大事な箇所なので、お読みください。

 

語り手である作者が物語の序盤にモモの性質を説明するくだりです。

 

ここから

 

*

 

「モモのところに行ってごらん!」

このことばは、だんだん近所の人たちのきまり文句にまでなりました。「ごきげんよう!」とか、「いただきます!」とか、「神のみぞ知る!」とか、それぞれきまったときにかならず言うように、みんなはなにかことがあると、「モモのところに行ってごらん!」と言うのです。

でも、どうしてでしょう?モモがものすごく頭がよくて、なにを相談されても、いい考えをおしえてあげられたからでしょうか?なぐさめてほしい人に、心にしみることばを言ってあげられたからでしょうか?なにについても、賢明でただしい判断をくだせたからでしょうか?

ちがうのです。こういうことについては、モモはほかの子とおなじていどのことしかできません。するとモモには、どこかこう、人の心をほがらかにするようなところがあったのでしょうか?たとえば、とくべつ歌がじょうずだとか、なにかの楽器がうまいとか、それとも―なにしろモモはサーカス場みたいな円形劇場に住んでいるのですから―おどりだの、アクロバットの曲芸だのができたのでしょうか?

いいえ、それもちがいます。

ひょっとすると魔法がつかえたのでしょうか?どんななやみや苦労もふきはらえるような、ふしぎな呪文でも知っていたのでしょうか?手相をうらなうとか、未来を予言するとかができたのでしょうか?

これもあたっていません。

小さなモモにできたこと、それはほかでもありません。あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。

でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです。

 

*

 

ここまで。

 

 

これはまさに河合隼雄先生がおっしゃっていた「ただ聞くこと。それが相手の心を開く鍵になる」ということの実践そのものだと思いました。

 

ただ聞くことで、語る人間は自ら解決の糸口を見つける。

 

河合隼雄先生は、モモがしなかったように、カウンセリングの際にアドバイスなどは一切しなかったと言います。

 

モモの場合、彼女の性質であって無意識だったことは明白ですが、臨床心理の大家と同じであったのには驚愕しましたし、感動しました。

 

意図的でなかった分だけ、むしろすばらしすぎる性質です。

 

これはつまり、ミヒャエル・エンデが「聞くこと」の価値を十二分に知っていて、その性質をモモに授けたということにほかなりませんね。

 

 

 

「モモ」は私たち世代にとって教科書になります。

 

 

 

 

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