「聖者に希望なし」

「聖者に希望なし」という言葉があります。仏教のお話です。

 

ある日、お釈迦様が村に托鉢に出ました。しかし、いくら歩いても、食べものは一つももらえませんでした。

そこに悪魔が出てきて、「もう一回托鉢に出れば、食事がもらえますよ。だからもう一回托鉢したらどうですか」と勧めました。

するとお釈迦様は「いいえ、行きません。今日の托鉢は終わりました。」と答えたのです。

悪魔は村の人々の思考を抑えてちょっと狂わせて、その日はお布施しないようにしておきました。それで、お釈迦様が返ってから神通力を抜きました。これは全部悪魔の仕業だったのでした。

何かの仕事をするとき、人は目的を持つものです。托鉢に出かけていくとすれば「食べものをもらう」というのが目的ですね。

ですから、目的を果たせなかったという観点からすれば、お釈迦様の托鉢は失敗に終わったことになります。成果をあげられなかったのですから。

しかし、お釈迦様は二度は行きませんでした。

お釈迦様は、ただ「托鉢に出る」という行為だけに専心していたのです。

食事をいただけるか否かは、自分で決めることではない。自分の希望で成り立つことではない。

原因が整わないと、結果は出ないだけのこと。

 
希望や目的に対する執着があれば、強引なこともやってのけるでしょう。

「何ももらえなかった。私はかわいそうだ。何としてでももらうのだ。」という様々な感情が入り乱れていきます。

しかし、聖者は希望で導かれる生き方をしない。

これを「聖者に希望なし」と言うのだそうです。

 
「すべては無常であって、希望通りにはいかないのだ。みんな壊れるものなのだ。」という智慧は、むしろ人を喜びに満たすものだそうです。

もちろん、私はそういう境地を到底まだ知りません。

でも、「空しい」とか「寂しい」という苦の気持ちはよく感じていますから、ためしに「希望なし」でただひたすらに生きるということに憧れはあります。

 

仏像

 

 

 

 

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