西田幾多郎「善の研究」

西田幾多郎の「善の研究」は青空文庫で読むことができます。

読むことはできますが、内容が深すぎてハードルが高く、何度も挫折してしまっているのも事実です。

そんなこんなで、私の読書メモから少しずつ。

(ブログを備忘録がわりにしてしまって、すみません。笑)

まず、「純粋経験」とは何でしょう。私たちの日常とどのようにつながっているのでしょうか。

純粋経験は、まだ何の枠にもはまっていない、生の経験を指します。

言葉にされる前の感覚や感情、これが純粋経験です。

私たちが呼吸をするように、意識せずとも感じ取っている世界そのものが、実は純粋経験の連続であると西田は見ています。

この経験が、知識や言語によって染められる前の、最も原初的な状態が、彼の追求する哲学の出発点です。

次に、この純粋経験を通じて自己を発見する過程があります。

西田にとって自己認識は、外部の物事だけでなく、内部の深淵に目を向けることから始まります。

これは、自分自身が何者であるかを深く掘り下げ、自己と世界との関係を見つめ直す作業です。

この自己発見が、彼のいう善への道を照らします。

また、西田は「場所」という概念にも注目します。

彼によると、すべての存在は「場所」を持ち、その場所が各存在の特性を決定づけています。

この場所は物理的な位置だけでなく、存在が実現される背景全体を意味します。

ここにおいて、私たちは自らの立つ場所を自覚することで、より良い生き方を選択することが可能になります。

善の追求においては、これらの認識を生かし、内面の調和と外界との調和を模索します。

西田は、個々人の内面における平和が外界の平和へとつながると説いています。

これは、個人が自己と向き合い、その結果として周囲の世界にも好影響を与えるという考え方です。

最後に、西田の思想における宗教の役割です。

彼は宗教が持つ経験的側面、つまり純粋経験と重なる部分に着目しました。

宗教的な経験は、しばしば私たちを超越的な何かにつなげ、それがまた新たな認識をもたらします。

この点で、西田の哲学は単なる学問の枠を超え、生の経験そのものに根ざした実践的な知恵へと誘います。

西田幾多郎の哲学は、純粋経験から自己を見つめ、自らの立ち位置を確かめ、真の善を追求する旅路へと私たちを導いてくれるのです。