「ほぼ日」のサイトに陶芸家・根本裕子さんのインタビュー記事が載っていました。
根本さんの作品は、空想上の生きもの。
けれども、それらの作品群には生きものの息づかいがちゃんとありますし、どこかで存在しているかも知れないと思わせる不思議な魅力があります。
インタビュー記事では、根本さんが語る言葉のひとつひとつが真摯で誠実でした。
先ほどの「生きもの」についても
「生きものの雰囲気を入れてあげると、ぐっと気配が出てくるんです。」
とおっしゃっています。
その、生きている兆しとは、皮膚のたるみとかシワや傷などの「生きてきた痕跡」のこと。
空想上の生きものなのに、リアルな存在感があるのは、そういう気配があるからなんですね。
そんな根本さんは、ご自身の身内の最期を看取ったときに「自分の身体を使い切る」ということを感じられたそうです。
そして、根本さんの関心は、造形だけでなく、その内側に宿る感情についても深く洞察しています。
「そういう興味が昔からあるんです。感情‥‥興奮、恐怖、不安、執着、よけいなことで、引っ掛かって動けない自分がいて、自分だけじゃなく、他人の感情にぶつかったりもして。」
「それらのすべての原因になっている この「感情」って、何なんだ。すっごく根本的な疑問なんですけど。」
「で、わたしは土という粒子をこねて、陶芸の作品をつくっているので、感情という粒子をかたちにできたら、何か安心できそうな気がするんです。」
「とするならば、どうしようもない感情に襲われたら、それを分解して、粒子に戻して、ひとつひとつ、確認することができないか‥‥とか。」
ある方が「人の感情は身体の皮膚感覚である」と言っていましたが、陶芸家の根本さんが同じようなことを感じていることに驚きました。
心と体。
当たり前のことですが、両方一緒になって人間なんですね。