見るものは見られえず

ビクトール・フランクルの書物に、このような言葉があります。

 

網膜の根源的箇所、すなわち視神経が網膜に入り込むその箇所に「盲斑」があるのと同じように、精神もそれが自分自身の根源を有しているまさにその場所においてすべての自己観察、すべての自己反省に関して盲目となる。

精神が完全に根源的であり、完全に「自分自身」であるその場所において、精神は自分自身に関して無意識なのである。

そして、このような精神に関してこそ、古代インドの聖典ヴェーダに述べられている次の言葉がそっくりそのままあてはまる。

「見るものは見られえず、聞くものは聞かれえず、考えるものは考えられない。」

 

フランクルは、人間であるということは自分以外の「何か」や「誰か」に向けられてはじめて輪郭を表すもの、自分自身を他者のうちに見出すものだと言っていました。

私が信じられないのは、彼の、その世界に対する信頼の深さと托身の姿勢です。

「その世界は、出会うべき他の存在と、実現すべき意味に満ちている世界」だと言い切っていました。

他者不信、自己不信に満ちた現代の我々にとって、想像すらできない境地と言えます。

「主客一体」という言葉は、愛深き実践者でなければ説得力がありません。フランクルはそれを地で行くような人だったのでしょう。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA