沖縄県立中部病院で研修医時代をともに過ごした仲間たちは
今でも何かしら特別の絆でつながっています。
きっと死ぬまでつながっているんだろうなと思います。
私たちは県立中部病院初期臨床研修制度の25期生。1991-1992の仲間です。
当時と今では時代が違うのは当たり前ですし、不必要な懐古趣味で当時を礼賛するつもりもありませんが
先輩医師達の「武勇伝」に強く憧れ、また実際にそれを実践したがっていた時代でした。
「経験が足りない」という理由で「当直回数を増やしてくれ」と訴えていた同期もいましたし
「あいつは救急センターの詰所に潜んでいて、手技が必要な時にさっとやってきて、やるだけやったら去っていく」
とひんしゅくを買いながらも笑って許される同期もいました。
診療以外にも
外科の先生などは白バイにスピード違反でつかまって
「これから病院で緊急手術」
「そういうことなら私が先導します」
ということがあったといいます。
(と聞かされました。真偽のほどは定かではありません。)
朝5時に起きて、病棟の採血。
夜は病棟担当医であるファースト・レジのカルテ整理のお手伝い。
と言っても、だいたいが山ほどたまった検査結果をカルテの台紙に切り貼りするお仕事です。
優秀なインターンほど、その作業に意義を見出せず、ファースト・レジとやりやっていたものでした。
そういう彼もファースト・レジに進級すると、さっそくインターンに
「検査結果ためるな。」
と言ってましたが。
さて、昨日は同期の激励会がありました。
彼も長く研修医の頃から沖縄県立病院に勤務し、沖縄県の診療に貢献してきた男です。
彼の故郷から「救急医療をたのむ」と請われ、その立ち上げのために尽力することに決めたのでした。
(彼の故郷は県外なのです。)
私たちの年齢はすでに自分のことよりも、ストレートに世の中に何が貢献できるかと問われる年齢になっています。
志を立てた彼の言葉は私たち同期をそれぞれにまた奮い立たせるものでした。
日本全国(海外も)どこにいても、同期はつながっています。
それぞれの持ち場の配置につきます。