開いていると思っていた箱

開いていると思っていた箱

 

2019年、人類は初めてブラックホールの姿を写真にしました。

オレンジ色の環が、暗い中心を囲んでいる。

あの1枚は、地球ほどの大きさに広げた望遠鏡が、世界中で集めた電波を組み合わせて作られています。

ただし、集まったデータはすきまだらけでした。

そのすきまを埋め、1枚の像に仕上げたのは、計算のアルゴリズムです。

どうしてその答えになったのかを、人が最後まで追いきれない部分もある。

中身の見えない箱が、写真づくりの一部を担っているとも言えます。

 

中身の見えない箱を信じてよいのか。

この不安は、AIの時代に始まったものではありません。

顕微鏡を考えてみます。

レンズを覗く人は、そこで光がどう曲がり、何を経て像を結ぶのかを、細部まで説明できるわけではありません。

それでも私たちは、見えた小さな世界を信じてきました。

道具の内側をすべて理解しなくても、その道具が確かに働くことは、別の方法で確かめられる。

信頼は、中身を開くこととは別の道からも来ます。

 

近い例が天文学にもあります。

ハッブル宇宙望遠鏡がためこんだ膨大な画像の中から、AIが小惑星の通り過ぎた跡を探し出しました。

市民が手で見分けた1488本の跡を教材に鍛えられ、新たに2000本を超える跡を見つけ出したのです。

誰もAIの中を開けて確かめてはいません。

それでも結果は信頼されました。

専門家が照合でき、既知の天体とも合っていたからです。

信頼は箱の中身ではなく、まわりの手立てから来ていました。

 

ところが、この論文で本当に問題にされていた箱は、AIの側ではありませんでした。

天の川銀河の中心には、いて座A*(エースター)と呼ばれる巨大なブラックホールがあります。

その正体を描くために、研究者は精巧なシミュレーションを長く使ってきました。

最初に撮影されたM87*では、観測された性質をよく再現する模型の一群がありました。

ところが、いて座A*を描こうとすると、話が変わります。

満たすべき観測上の条件は11個あります。

そのすべてに合う模型は、まだ見つかっていないのです。

 

困ったのは、なぜ外れるのかを言い当てられないことです。

模型の中身が足りないのか、観測の測り方に問題があるのか、それとも計算上の都合なのか。

どれとも決めきれない。

この状況では、どこを直せばよくなるのかがわかりません。

長く使われ、中はよく見えていると思われていた道具の内側が、実はいちばん見通せていませんでした。

 

入り口で身構えたのは、新しいAIの箱でした。

けれど、その答えが別の方法と突き合わせられるなら、中を開けなくても信頼できる場合があります。

一致を確かめる手立てがあれば、不透明さだけでは決定的な弱点になりません。

むしろ危ういのは、条件を満たしきれていないシミュレーションを教材にしてAIを鍛えるときです。

教材にゆがみがあれば、それを学んだAIの答えにも、同じゆがみが受け継がれてしまいます。

 

オレンジ色の環を、もう一度思い浮かべます。

あの1枚を作った新しい道具は、周りに支えがあれば頼りになりました。

光る環はそこにあり、輪郭もはっきりしています。

ただ、その環がなぜそう光るのかを説明するはずの模型は、まだ中を見せないまま、環のかたわらに置かれています。

写真は撮れて、説明は箱の中にある。

次にあの環を見るとき、明るい縁のすぐ隣に、開いていない箱が1つ寄り添っているのが、見えるかもしれません。

 

参考文献:

Yaskolka Meir, A., Adeola, H.A., Tasaki, S. et al. Social vulnerability index and inflammation: a proteomic analysis linking social context to biological risk in older black adults. BMC Med (2026). https://doi.org/10.1186/s12916-026-04997-4

 

 

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。