返事がないことと、届いていないこと

返事がないことと、届いていないこと

 

「ご家族の声は聞こえているといいますから、名前を呼んであげてくださいね。」

 

病院で勤務していたころ、昏睡状態の患者さんのご家族に、私は何度もそうお伝えしました。

確かな根拠を示せたわけではありません。

それでも、その言葉は医療者のあいだにも広く共有されていて、ただの慰めとも思えませんでした。

一方で私たちは、目に見える反応がなければ、この先どうなるかをうまく言えずにいました。

届いていると信じることと、それを確かめることのあいだには、長いあいだ距離がありました。

 

昏睡状態の患者さんが、この先どうなるか。それを見通すのは、医療でも難しい仕事です。

長く頼られてきたのは、目に見える反応でした。

声をかけて、まぶたが動くか、手を握り返すか。

脳の画像や血液の数値も使われます。

それでも、外に出る反応がほとんどない人については、先の経過を見通すのが容易ではありませんでした。

見えるものだけを手がかりにしているかぎり、あの距離は埋まらなかったのです。

 

では、届いているかどうかを、外から確かめることはできるのでしょうか。

研究チームが変えたのは、手がかりの置き場所でした。

本人が返事をするかどうかではなく、脳がその名前に、ふつうの音とは違う反応を返しているか。

外に出る反応がなくても、その奥で何かが続いているなら、痕跡はどこかに残るはずです。

 

研究の対象は、急性脳損傷のあとICUで昏睡状態にあった81人でした。

使ったのは、本人と近しい家族4人の名前です。

録音したのは家族自身で、半数あまりは子どもが、4分の1ほどは配偶者が、ふだんの声で吹き込みました。

5つの名前を0.75秒ずつ、切れ目なく流します。

比べる音として、同じ名前を逆向きに再生したものも用意しました。

高さも長さも似ていて、意味だけが抜け落ちた音です。

その間、頭につけた電極で脳波を記録しました。

 

記録には、2つの傾向が見えてきました。

1つは、意味のある名前に対して、逆向きの音より大きな反応が出ていたことです。

音の量も拍子もそろえてあります。

それでも脳の活動には差が出ていました。

音が届いた反応ではなく、名前として処理された痕跡に近い反応です。

もう1つは、名前への反応が大きかった人ほど、1か月後、3か月後、6か月後の回復が良い側に寄る傾向にあったことです。

今この瞬間の脳波と、数か月先の経過。別々に測った2つに、同じ向きの傾きがありました。

 

届いていると信じてきたことに、ここで少しだけ外から測れるものができます。

返事のできない人の中にも、まだ音への処理が残っている場合がある。

外からは見えなくても、奥では名前に反応していることがある。

ただし、結びつきは完全ではありません。

反応が大きくても回復しなかった人もいれば、反応が弱くても戻ってきた人もいました。

そして、これは観察にもとづく関連であって、名前を呼べば回復する、という話ではありません。

残っている働きを映す目盛りであって、回復を生み出す手立てではないのです。

 

私たちは毎日、誰かの名前を呼んでいます。

台所から、玄関から、別の部屋へ向かって。

たいていは返事が返ってきて、それで会話が続きます。

けれど返事がないとき、その沈黙を、相手が遠くにいる証拠だと受け取りがちです。

次に名前を呼んで返事がなかったら——返事のない沈黙の向こうにも、こちらには見えない時間が流れている。

そういうことも、あるのかもしれません。

 

参考文献:

Wu, M., Di, Y., Kuang, S. et al. Neural Response to Familiar Names Predicts Outcome of Comatose ICU Patients: A Prospective Observational Cohort Study. Nat Commun (2026). https://doi.org/10.1038/s41467-026-73878-4

 

 

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。