机の角に足の小指をぶつけたとき、私たちは痛みを「危険を知らせる合図」として受け取ります。
熱い、鋭い、傷んでいる。
痛みを伝える感覚神経は、体の見張り役であり、多くの場合、こちら側の味方として働く安全装置です。
肺の奥、空気と血液が触れ合う肺胞のあたりには、普段あまり神経が伸びていません。
ところが肺腺がんという種類の腫瘍ができると、痛みを感じる種類の神経が、その外側へ向かって伸びてきます。
腫瘍が大きくなるほど、神経も増えていきます。
なぜ、そこに神経が増えるのか。
肺胞の近くでは、腫瘍の縁に痛覚神経が集まること自体が、まず目につく異変でした。
この神経は、脳へ危険を知らせるだけではないのかもしれません。
腫瘍のそばで、免疫細胞の集まり方にも関わっているのではないか。
ならば、その働きを弱めたとき、腫瘍の縁には何が現れるのでしょうか。
英国などの研究チームは、マウスを使い、この痛覚の神経だけを選んで働かなくしたり、逆に強く働かせたりして、腫瘍の様子を見比べました。
神経を残したまま薬で刺激する群と、神経を取り除く群。操作を肺の局所に限り、腫瘍の周囲で起こる変化を追いました。
痛覚の神経を取り除いた肺では、腫瘍の縁に免疫細胞の小さな集まりができていました。
三次リンパ構造と呼ばれる、いわば免疫の前線の詰所です。
そこではがんを攻撃する細胞が育ち、腫瘍の進み方は抑えられていました。
神経を強く働かせると、逆のことが起こります。
神経が出すCGRPという物質を受け取ったマクロファージは、仲間を呼び集める号令を出しにくくなり、詰所そのものができにくくなっていました。
味方だと思っていた痛覚神経が、腫瘍のそばでは免疫の詰所づくりを妨げていました。
その結果、腫瘍の増殖に有利な条件が残されていたのです。
この痛覚神経を強く刺激するものの一つが、たばこの煙でした。
煙はDNAを傷つけるだけではありません。
研究チームは、煙が痛覚神経を直接刺激し、CGRPを増やすことを確認しました。
CGRPは単純な悪役ではありません。
異物の刺激に免疫が反応しすぎれば、薄い肺胞の壁まで傷みます。
神経がCGRPで炎症の勢いを抑えるのは、肺を守るためのブレーキでもあります。
ところが腫瘍のそばでは、そのブレーキが免疫の詰所づくりまで弱めていました。
腫瘍が広がりやすい場所には、壊れた仕組みだけでなく、正常な防衛機構のすき間も含まれているのかもしれません。
薬を使ってCGRPの受け皿をふさいでみると、煙にさらされたマウスでも免疫療法が効きやすくなり、生存期間も延びました。
そのすき間を見分けることが、免疫療法を助ける次の手がかりになります。
ただし、研究の主な舞台はマウスであり、ヒトでは同じ方向の手がかりが見えたところにとどまります。
ここから人の治療を決めるにはまだ早い段階です。
痛みを伝える神経は、危険を知らせるだけでなく、炎症が広がりすぎないよう手綱を引く役目も担っています。
その働きは本来、肺を守るためのものです。
けれど腫瘍のそばでは、同じ手綱が免疫の集まりまで抑えてしまう。
腫瘍がくぐり抜けるのは、からだの防衛が壊れた場所だけではありません。
防衛が精密であるがゆえに生まれる、細いすき間もある。
次に体のどこかが痛んだとき、その合図がたった一つの意味だけを運んでいるとは、もう言い切れない気がしてきます。
参考文献:
Ho YH, Bregni G, Stazi M, et al. Nociceptive innervation limits tertiary lymphoid structures to promote lung cancer. Cell. Published online May 19, 2026. doi:10.1016/j.cell.2026.04.038

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
