何度目かのアラームの音で、「彼」はようやく目を開けました。
頭が重い。胃がむかむかしている。
みぞおちあたりに、昨日の酒がまだ残っている感じがします。
カーテンの隙間から入る朝の光が、目に刺さるほどまぶしい。
昨夜は駅前の居酒屋で飲みました。
「一軒目で帰るつもりだった」という言葉も、いまではむなしい言い訳です。
仕事で小さな失敗があり、気分は沈んでいました。
またやってしまった。
気分が落ち込んでいたから飲みすぎたのか。
それとも、飲みすぎたから今朝の気分まで落ち込んでいるのか。
嫌なことがあった夜に、いつもより多く飲む。
飲みすぎた翌朝に、気分まで重くなる。
どちらもありふれた記憶です。
だから、気分が先なのか、お酒が先なのかは、一晩の反省だけでは決められません。
飲酒と心の状態の関係は、臨床の場面では以前から問題にされてきました。
アルコール依存症やうつ病では、互いに関係し合う流れも報告されています。
ただ、普通に暮らす人たちの中では、この順番はまだ見えにくいままでした。
「彼」ひとりの朝だけを見ていても、答えは出ません。
昨夜の酒と昨日の気分は、同じテーブルに証拠を残しているからです。
必要なのは、同じような朝を迎えたかもしれない多くの人の時間を、少し先まで追うことでした。
ドイツの研究では、過去1年に飲酒があった18〜64歳の一般成人816人が、12か月にわたって調べられています。
開始時、3か月後、6か月後、12か月後に、心の状態と飲酒量が記録されました。
一晩では混ざってしまう前後関係を、多くの人の時間の列に並べ直したのです。
追跡されたのは、飲んだ量だけではありません。
不安、落ち込み、落ち着き、幸福感といった、その月の心の状態も、MHI-5という短い質問票で記録されました。
点数は0〜100点に換算され、点が高いほど心の健康度が高いとされます。
飲酒量は、過去30日間にどれくらいの頻度で飲み、飲む日に何杯飲んだかから、月あたりの杯数として計算されました。
研究者たちは、四つの筋書きを並べました。
何もつながっていないのか。
酒が後の心に残るのか。
心の状態が後の酒に続くのか。
それとも、両方が行き来しているのか。
時間を追ってみると、よりはっきり見えたのは「お酒を飲んだから、そのあと気分が落ち込む」という流れではありませんでした。
前の時点で心の状態がよい人ほど、その後に飲む量は増えにくくなっていました。
最初の平均飲酒量は月に約9杯で、追跡中も月10〜12杯ほどです。
心の健康度は60点台半ばから70点台前半へ移っていました。
数字の変化は大きく見えませんが、時間の順番を比べると、先に見えていたのは飲酒量よりも心の状態でした。
反対に、前に飲んだ量が、その後の心の状態をはっきり左右する流れは、この集団では強く残りませんでした。
つらい朝は、昨夜の酒だけで説明できるとは限りません。
むしろ居酒屋ののれんをくぐる前に、すでに一日のどこかで心の余地が削られていた可能性があります。
「嫌なことがあって飲んだ」という記憶は、個人の弱さや言い訳として片づけられがちです。
けれど、この研究を通すと、その記憶は少し違って見えてきます。
杯数だけを見ていると、その前にあった気分や疲れは見落とされやすくなります。
ただし、対象者には低リスク飲酒者が多く、飲酒量も心の状態も自己申告です。
MHI-5は診断ではなく、短い確認票です。
重い飲酒問題やうつ病を抱えた人々では、別の関係が見える可能性があります。
朝の光はまだまぶしい。
「彼」は水をもう一口飲み、昨夜のことを思い出そうとします。
二軒目の店、断れなかった返事、仕事の失敗を引きずった帰り道。翌朝のだるさだけを見れば、原因は昨夜の酒のように思います。
けれど、その一杯に向かう前に、すでに心は少し沈んでいたのかもしれません。
飲んだ量の奥には、飲む前の気分があります。
参考文献:
Markwart H, Staudt A, Freyer-Adam J, et al. Alcohol consumption and mental health in a dynamic longitudinal relationship in a general population sample: A bivariate latent change score model. J Affect Disord. 2025;388:119765. doi:10.1016/j.jad.2025.119765

紹介した論文の音声概要を、NotebookLMでポッドキャスト化してみました。あわせてお楽しみください。
